【 ワールドジェットスポーツマガジン「 2025年 5 月号 」】 「 ”チョット立ち読み” 」『 失われた“環”・ジェット スポーツ ヒストリー 』他、 ただ今、まるごと1冊”無料公開中” ジェットスキー(水上バイク)
Jet Sports History
「 未来への教訓 」知っておくべき「 歴史の話 」
「 歴史の話 」・ジェット業界に栄光あれ!
過去を 振り返り、歴史を検証するのは 非常に重要である。
それは全て“今”に繋がっているからだ。
歴史から学べる“教訓”は重い。
人間の“失敗”と“成功”の 積み重ねでもある。
「 歴史を学ぶ 」とは、 現代を考えること、人間を考えること、 そして 未来を予見することである。
1981年、USチャンピオン ホール ショット マロット 選手。
国内「 初 」・本格派 レーシング パーツ メーカー
今月号は、インペラー メーカー「 ソラス 」の 日本総代理店 である ナカサンプロジェクトの 中村 行男氏 を 取り上げた。
ナカサンプロジェクトは、国産初の ジェット用パーツを製造・販売していたメーカーである。
彼は、国内の ジェット業界で 起こった さまざまな 事象の渦中にいた “歴史の生き証人”だ。
国内での ジェットの歴史は、たかだか45年だ。
なんと 今から44年前!、「 1981年度 撮影 」、JS 440 で 魅せる フリースタイル。
人は、簡単には 変わらない
中村氏の話に出てくる“登場人物”は、 今も、現役で 活動している人が 多くいる。
現在の彼らと照らし合わせてみるに、 “人の本質は、 何年経っても変わらない”のだと、 改めて思う。
再度言う。 歴史を知ることは、「 現在 」 そして「 未来 」を 見ることだ。
ジェット業界に 栄光あれ!
「 紆余曲折・波乱万丈 」「 ナカサン プロジェクト 」物語
当時の「 ナカサン プロジェクト 」広告(左)、JJSBA全日本選手権・初年度から2年連続チャンピオンマシン。
歴史から消えた“謎”
1983年から始まった、ナカサン プロジェクト の 偉業は、 「 日本の ジェット史 」の “どこ”にも 残っていない。 歴史の“欠損”部分なのだ。 しかし、「 本当の歴史 」が “消える”ことは 決してない
「 ナカサン プロジェクト 」各種パーツ、オリジナル・カーボン船体まで制作していた。
「 失われた環 」The ミッシングリンク
日本で初めて、ジェットの「 国産パーツ 」を販売した メーカーを知っているだろうか。 現在は、ソラス インペラーの日本総代理店である 「 ナカサン プロジェクト 」である。 ナカサン プロジェクト代表である 中村 行男氏 は、 日本で「 ジェットスキー 」が普及し始めた1983年には、 オリジナル パーツを 作って 販売していた。 ナカサン プロジェクトの偉業は、 なぜか「 日本の ジェット史 」の “どこ”にも載っていない。 しかし、歴史は嘘をつかない。 国内の“ジェットの歴史”にできた 欠落部分を埋める 「 ミッシングリンク( 失われた環 ) 」のひとつが、 この「 ナカサン プロジェクト 」であり、中村氏なのだ。 今回、「 中村 行男氏 」に、 「 当時、何が行われ、何が本当なのか 」を語ってもらった。
ナカサン プロジェクト・コンプリートマシン(イラスト)。
1983年 「 ナカサン プロジェクト 」誕生
代表・中村 行男氏 スペシャル インタビュー
クルマのレースから ジェットの世界へ
WJS 中村さんとは、レース会場や イベント会場で お会いすることが 多いです。 お会いする 機会が多いのに、中村さんのことを 伺ったことが ありません。 早速ですが、今、おいくつですか? 中村 1946年3月生まれ、79歳です。 WJS ジェットを 始めたのは いつですか? 中村 1982年ぐらい ちゃうかな。 もともと僕は、ハヤシ レーシングで フォーミュラ500( FL500 )のレースに 出ていたんです。WJS クルマの レースですか? 中村 はい。 若いときから エンジンの勉強を していたので、 「 モータースポーツ 」には 自信がありました。 WJS どこで エンジンの勉強を したのですか? 中村 僕は モータースポーツが 好きだったんで、 ホンダ( 本田技研工業 )に入りたかった。 ホンダに入社するために 松原職業訓練学校 自動車専門科 って いうところに行って、エンジンの基礎を しっかりと 勉強して ホンダに就職しました。 だから、エンジンに関しては 自信がありました。 WJS ハヤシ レーシングとは、どういった 関係だったのですか? 中村 最初、レースをするときに、ハルを買ったのが ハヤシ レーシング。 ハヤシ レーシングのハルに、 自分で作ったエンジンを載せて、レースを始めたんです。 WJS それが、先ほど仰っていた「 フォミュラーカー500 」ですか。 エンジンのことを 勉強して ホンダに入社し、 趣味で 車のレースを していたのですね。
1970年代後半、フォミュラー500(FL500)、に参戦。レースマシンに乗る 「 ナカサン プロジェクト代表・中村 行男氏 」。
衝撃的だった「 ジェットスキー 」との出会い
WJS カーレースから、ジェットの世界に入ったのですか? 中村 そうですね。初めてジェットを見たのは、仕事で トラックで 九州まで 製品を運送した 明石の海です。 水上で 走ってるのを見て、「 なんや あれ? 」って。 強烈な 印象を 受けました。
WJS 最初は 「 ジェットスキー 」とは 知らなかったのですか? 中村 はい。だって、何の情報もなかったし、 ジェットスキーって “見た”ことも なかったから。 何なのか 知らなかったし、何か 分からなかった。
中村 行男氏、「 紆余曲折・波乱万丈 」な 昔を語る。
乗ったこともないのに「 ジェット 2台 」 衝動“買い”した
WJS そのときに 見たのはJS 440ですか? 中村 そう。家に帰ってから「 明石で、海の上を 走っている バイク みたいな “変なもん”を 見た 」って 友達やら 近所の人に 話したら、近所の人が「 あれは ジェットスキーって いうんや。 京都の お店で それ 売っているし、場所を 知ってるで 」って 教えてくれた。 それで、すぐに 京都に 買いに行きました。 WJS 乗ったこともないし、初めて見たばかりの 名前も知らない “乗り物”を 買いに行ったのですか? 中村 ひと目見たときから、忘れられへんかった。 あのころ、投資が上手くいってて 金銭的にも 精神的にも 余裕があった。 WJS そのときに買ったのはJS 440ですか? 中村 はい。まだ550は 売ってなかったから。 その お店に440が2台あったんで、 「 ちょうだい 」って 2台とも買いました。 WJS 1台ではなく、2台ですか? 乗ったことがないのに、よく買いましたね。 中村 2ストロークエンジンだし、大丈夫やろと思った。 それで、実際に乗ったら「 これ、面白いやん 」って。 そこから ハマって しまいました。 WJS 最初から、上手く乗れたのですか? 中村 上手いかどうかは 分からないけれど、普通には 乗れましたね。 それで、乗ってると どんどん 楽しくなった。
愛娘さんと。
国内ジェット業界 初の「 アフター パーツメーカー 」
WJS ナカサン プロジェクトが 初めて ジェット用のパーツを 作ったのはいつですか? 中村 1983年ごろかな。 WJS その当時、国内でジェットのパーツを 作っている企業は ありませんでした。 どうして ジェットのパーツを 作ろうと考えたのですか? 中村 最初、パーツじゃなくて、 「 ジェットスキー 」“全部”を 作りたくなったんです。 僕だったら、「 これより エエもん 作れる 」っていう 自信があった。 当時の ジェットは よく故障したから、エンジンの中を見たりしているうちに、僕なら もっと エエもんが 作れるから、 「 メーカーに なりたい 」と 真剣に 思った。 WJS いわゆる「 カワサキ 」に なりたかったのですか? 中村 そうです。 乗ってたら、どんどん どんどん 可能性が 広がる。「 よし、これで やってみよう 」って 思ったのが 最初です。
ショップに飾られていた、ナカサン プロジェクト・コンプリートマシン。
最初に作ったのは、オーバーヒートを防ぐ装置
WJS 当時、ジェットスキーは 世の中に 出たばかりの 新しい 乗り物でした。 それだけに、改良の 余地も あったわけですね? 中村 最初の頃の440のエンジンって、 アクセル全開で ずっと 走り続けると、かなりの確率で 壊れた。 とにかく オーバーヒートして、すぐに 焼き付いた。 それで、「 なんで “焼き付く”んだろう? 」って 考えたんです。 多分、最高速で ずっと 走り続けるなんて 考えて なかったんよね。 WJS それを 何とかしたいと 思ったのですね? 中村 最高回転数が 続いても、「 エンジンを 冷やす 」ことが できれば 焼き付かなくなるだろう って 思った。 WJS 当時のJS 440は、冷却システムが 不十分 だったのですね? 中村 そう。 それで、マフラーに 水を通す部分の場所( 冷却水の経路 )を いろいろ テストして 変えてみたりした。 「 これやったら、絶対ええわ 」。 僕の440だけ 最高回転数でも 焼き付けへんから、「 これでやっていける 」って いう“もの”ができた。 それが、一番最初の 改造です。
伝説のチャンプ、ドラゴン・前田 一龍 選手に提供した、「 ナカサン プロジェクト 」オリジナル・マシン(右)。
次に作ったのが「 ドライカーボン 」のハル
WJS それから、いろいろな パーツを 作り始めたのですか? 中村 もともと ハヤシレーシングで フォーミュラに 出てたので、 レース関係の 知り合いや 仲間も 多かった。 だから、「 とことん 行ったろう 」と思って、 ドライカーボンの ハルまで 作った。 もちろん、エンジンは 得意だったから 自分でやりました。 WJS 「 冷却系路を 改善 」する パーツは、発売されたのですか? 中村 いや、それが いろいろ あって 発売できなかった…… 。 当時、知り合いだった人が 「 ナカさん、何してんの? 」っていうから マフラーの “ここ”んとこに 水を通す テストをしてるんや。 これで 焼き付けへんねん 」っていう話をした。 仲間だったからね。 WJS それは、試作段階ですか? 中村 そう。そういう話をしたら「 それ 貸して 」って 言われて貸した。 そしたら、一年後に アメリカのPJSから、 同じ仕組みの マフラーが 出てきた。 「 なんでやねん 」と思ったし、悔しかった。だけど、みんなが採用してるってことは「 自分の やってること は 間違ってへんねんな 」って 自信が深まった。 WJS 確信はないけれど、アイデアを盗用されたようなものですよね。中村 そう思いましたし、今でもヤラレタって。
日本で最初の「 アクセルレバー 」。
「 ナカサン プロジェクト 」ロゴマークの由来
「 ナカサン プロジェクト 」は、“2本の矢印”が 重なったような ロゴマークだ。 どうして この図案にしたのか、中村さんに 由来を 聞いてみた。
「 ナカサン プロジェクト 」ロゴマーク
『 真ん中から 右上に向かって 飛ぶ矢印は、僕の“気持ち”。
自分の情熱が、「 真っ直ぐ、真っ直ぐ 」ってね。
そして、その内側にある2本目の矢印は、 僕に“付いて来い”って いう気持ちを 表しています。
その矢を 丸い円で 囲んでいますが、 これは「 場所を作る 」という意味です。
「 楽しい場所 」「 幸せな場所 」。
僕んとこに来たら、「 絶対 楽しい 場所になるし、 幸せな 場所になる 」って いう願いを 込めました。
「 みんなで、楽しく やれたら いいな 」っていう 気持ちが 詰まっています 』
◆
シンプルでありながら、力強い 意志を 感じさせる。
何とも ステキな 意味を持つ ロゴマーク である。
1983年 日本で初めて ボートショーで 「 ジェットスキー 」が展示された。【 東京 インターナショナル・ボート・ショー1983 】
1983年 東京 インターナショナル・ボート・ショー
ドラゴン・前田 一龍 選手との出会い
WJS 1985年に 第1回目の 全日本選手権大会( JJSBA )の レースが始まります。 その 初年度と 翌年の チャンピオンは 前田 一龍 選手ですが、 「 ナカサン プロジェクト 」の コンプリートマシンに 乗っています。 前田選手は 関東の人で、中村さんは 関西の人です。 どのような 繋がりが あったのですか? 中村 日本で、最初に ボートショーで ジェットを 出展していたのが 前田くんでした。 キチンと 挨拶したのは、僕の仲間が USチャンピオンの ラリー・リッペンクローガーと 前田 一龍くんを 店に 連れてきて 紹介されたとき。
ジェットを展示した 企業の名前は「 ジェットスキー・ジャパン 」、 ドラゴン・前田 一龍 氏 の 会社である。
WJS 当時、まだ 世の中に ジェットが 知られていないし、乗ってる人も 少数でした。 ジェット業界が、今よりも 小さかった。 皆が、どこかで 繋がっていたのですね。 中村 本当にそう。 ジェットを買った人間は、ほとんどが レースに来ていたね。 お金のある人は、「 PJS 」や「 ウエストコースト 」 「 オレンジ カウンティ 」「 ジェトコ 」といった、 アメリカの アフターパーツメーカーの フル・コンプリート艇を 購入していました。そのころは まだ、PJSの 一強では ありませんでした。 でもね、僕は そういった 海外の メジャーマシンを見ても、 すごいとは 思わなかった。 装着したパーツを見ても 「改造の“意図” 」が 分からない。 何を考えて、こんなもん 付けてるのかって 疑問を感じた。 エンジンのことをきちんと理解しているとは、思えなかった。
「 ナカサン プロジェクト 」の 店内にサインを書く、ラリーリッペン・クローガー選手( 初代USチャンプ・ハリウッド映画俳優 )
海外製の コンプリート艇に 感じた疑問?
WJS どういう意味ですか? 中村 4輪のフォーミュラーマシンでも、 エンジンや その周辺の 装着パーツを見れば「 こういう特性の マシン なんだな 」って いうのが分かる。 でも、海外の レ ースマシンの場合、各パーツは 強化さ れて いるんだ けれど、その強化によって「 低速重視 」なの か、「 トップスピード重視 」なのかが 判断 できなかった。 WJS 中村さんが 学校や ホンダで 学んできた 「 エンジンの 基本原則 」に 則っていなかった ということですか? 中村 そうやねん。だから、 「 僕のほうが 勝てる マシンを 作れる 」と 思いました。 僕の“考え”では「 早いけれど 楽に 走れるマシン 」が、 「 レースで 勝てる マシン 」やと 思ってた。 でも 海外のコンプリート艇は、エンジンを見ても、 僕らみたいに 専門で 勉強してきた人間からしたら 「 パーツの意図 」が 見えないもの“ばかり” やった。 各パーツの方向性、例えば チャンバーは 「 パワーが 出ればいい 」 とか、 キャブレターは 「 空気を いっぱい 吸えばいい 」というのは 分かるけれど、 トータルとして “どこ”に 向かっているか 分からない。 パワフルだけど ライダーが “疲れ”やすい と 思った。 だから、キチンと「 パーツの意図 」が 分かるマシンを 作ったら 絶対に 勝てる、“行ける”と思った。 WJS それで コンプリート艇を 作り始めた わけですね? 中村 世の中に440と550しかない時代、 「 僕なら、カワサキより エエもん できる 」って。 そのために、全てのパーツを こしらえました。 もちろん、全部 自分で作るのは 非効率やから、 4輪の レーシング時代の 仲間を頼って 分業です。 「 アクセルレバーは こういうふうに 作ってくれ 」 「 チャンバーは こういうふうに 作ってくれ 」って指示して、 仲間に 作ってもらいました。 WJS それで、エンジンだけでなく、マフラーや ライドプレート、 スコープゲートや、船体をドライカーボンで仕上げた 「 オリジナルの コンプリート艇 」を 作ったのですね?
1985年、第1回JJSBAチャンピオンマシン。前田 一龍 選手(左から2番目)中村氏(左から3番目)。
日本“初”の「 国産 アフター パーツ 」【 プラスティック製 アクセル レバー 】を開発
中村 それで、前田くんに「 僕のマシン 乗るか? 」っていう 話をしたら「 ぜひ 乗りたい 」って 言ってくれた。 その船に乗った1年目に、一龍君が 日本チャンピオンを 取って、2年目も 日本チャンピオンになった 感じです。 WJS 最初から メーカーに なろうと思っていたので、 中村さんの“理想のマシン”を作るために、 オリジナルパーツが必要だったのですね? 中村 さっきも言ったけど、僕は「 メーカーになりたかった 」。
今でも 色褪せない、しかし「 伝説に ならなかった 」アクセルレバー。
「 ログジャンプ を 飛ぶ 」のが苦手で、自身はレースの出場を 諦めた
WJS 中村さん自身も、ジェットのレースは 出場していましたが、 自分で コンプリート艇に乗ろうと 思わなかったのですか? 中村 ライディングに 関しては、自分は そんなに上手じゃない。 僕は4輪の フォーミュラから来てるんで、真っ直ぐ走るのは得意だけど、ログジャンプを飛ぶのが苦手だったんです。 WJS ログジャンプといえば、 コース上にタイヤで作った “障害物 ”ですよね。 それが 苦手だったから、レースを 諦めたのですか? 中村 諦めたわけではなく、楽しんで 走ることにした。 WJS 前田 選手が「 乗らせてほしい 」と言ったから、 ナカサンプロジェクトのマシンに 乗ったわけですね。前田 選手のマシンを 作るうえで、 どういったことに 気を付けていましたか? 中村 レースには「 勝ち方 」っていうのがある。 僕の考え方は、パワーや 速さは もちろん大事なんだけど、 とにかく ライダーが“ 疲れない ”ことが 最優先だと 思っています。 だから、「 疲れにくい マシン 」という コンセプトで マシンを作りました。 それと、自分のマシンに“乗れる人を乗せて、海外のマシンと どう戦うか。 それを見たかった。
1986年、第2回 JJSBA 「 ナカサン プロジェクト・コンプリートマシン 」で‥、レーサーは 2年連続 チャンピオン「 ドラゴン 前田 一龍 選手 」。
忘れられない、資本家の仕打ち!・部下の裏切り
呼び出されて「 パーツを やめろ 」「 業界から 出ていけ 」、 「 お前の 部下も 裏切ったぞ! 」と 言われて、人間不信に!
WJS 現在、ナカサン プロジェクトでは ソラス製のインペラーを 扱っていますが、 そのまま パーツメーカーに ならなかった 理由は あるのですか? 中村 1980年代 後半になって、ジェットスキーも どんどん 人口が増えて、ブームになっていました。 当然、パーツメーカーも 潤ってきた。 そうすると、「 海外から 仕入れた パーツで 商売したい 」って人が たくさん 出てくるわけです。 関西でも、とある 資本家が 海外の 有名ブランド、パーツを 輸入して 売ろうとしていた。あるとき、その資本家に 呼び出された。 だから、2歳の娘を連れて 彼の事務所に 行ったんです。 僕も その人のことを 友達だと 思っていたから、 幼なかった 娘を 抱えて 行った。 そしたら、いきなり「 中村、お前 パーツ屋 やめろ 」って 「 業界から 出ていけ 」って 言われた。 「 え、なんで? 」って、もう混乱です。 WJS 呼び出されて、何の説明もなく そう 言われたのですか? 中村 それに、「 お前の“部下”も、お前を 裏切って 俺んとこに 来ている 」って 言われた。 WJS その資本家と 結託していたのですか、裏切り者? 中村 はい。全く 知らなかったけど、そうだった。 ハヤシ レーシングで レースをしていた 話をしたけど、 その部下は、ハヤシ レーシングで 営業を していたんです。 彼のこと、親身になって 面倒を“みた”という 自信があるから、 「 お前を 裏切って 俺んとこに いる 」って 言われたときは、愕然とした。 おかげで、人間不信になりました。 WJS 資本家や、 部下は、どうして、 中村さんに 業界から 去って 欲しかったのですか? 中村 お金の “ため”だと 思います。 後から 考えたら、みんなが 僕に パーツ屋を 辞めさせたかったと 思います。 資本家も 部下も「 本格的に パーツの販売をするから、 僕には パーツを 作ってほしくない 」みたいな 話でした。 そのとき 抗議 したかったけど、 何しろ 2歳の娘を 抱えたままでしたから、 “子どものケンカ”みたいなこと もできない。 そのときは「 はい、そうですか 」って、引き下がりました。 多分、娘がいなかったら “暴れて”いたかもしれませんね。 WJS それは ひどい話です。 中村 それで、もう一気に この業界に 嫌気が差し、 人間不信にも なりました。 相手は 巨大な資本やし、ブランド的にも有名な人。 しかも、面倒をみた 部下も、 僕を 裏切って 向こうサイドに いるわけですよ。その部下は、僕が やめてから パーツメーカーです。もう、すべてが“嫌”に うんざりしました。 WJS 以前から 中村さんを 知っていましたが、 そんな 話は 一切 知りませんでした。 中村 人に話しても、気分の良くなる 話では ないですからね。 それに、僕自身が 思い出したくないので 心の中に 封印していました。 今でも、その人と会ったら 挨拶はするけど、お腹の中では 「 嫌な 思いを させられた 」って 気持ちは 全然残っています。
酷い仕打ち、酷な裏切り、幼なかった 娘が 一緒に居なければ、冷静に対処できなかったかも。
ソラスの インペラーを 取り扱うようになった 経緯
WJS 仲間だと 思っていた人や、可愛がっていた部下からの 裏切りにあい、業界から はじき出された 感覚ですね。 中村 相当 落ち込みました。 パーツの新規開発や 販売も すべて止めました。
相当、不安定な 状態だったんでしょうね。 WJS そのあと、ソラスの 日本代理店になっていますが、 どういった 経緯だったのですか? 中村 僕が 嫌な思いを していたのと 同じころ、 ソラスの社長も 僕と同じような 思いをしていた。 日本中の アフターパーツを扱う 販売店を回ったけれど、 どこでも 断られて 取引を してもらえず 弾かれていたんです。 僕は 製品のクオリティが 一番 重要だと 考えていたし、 ソラスのステンレス・インペラーにも 魅力を 感じていた。 社長の 知識も 素晴らしく、僕の「 こういうふうに 改良してほしい 」という 要望を 聞いてくれました。 裏切られたせいで、パーツの開発をやめたので、 誰も 代理店にならない ソラスの販売を 始めました。 WJS 今は、全く オリジナル パーツは 作っていないのですか? 中村 ノズルや アクセルレバー なんかは 多少販売していますが、 中村 主に インペラーの 加工ですね。 僕が 特許を取っている技術があるので、キャビテーションを 起こさない加工や、性能アップを追求した 加工をしています。 WJS 今回は、「 日本で 初の 国産パーツメーカー 」 としての お話を 伺いました。 レース関係者なら 中村さんのことを 知らない人は いません。 実際に お話を聞くと、「 ジェットの 歴史 」を 作ってきた人だと いうことが 良く分かりました。 ◆
再度 書くが、ナカサン プロジェクト の 偉業は、 「 日本の ジェット史 」の “どこ”にも 残っていない。 さほど 長くない ジェットの歴史の“欠損”部分なのだ。 誰が“なかったことに”したかったのか 分からない。 しかし、「 本当の歴史 」が“死ぬ”ことはない。
「 紆余曲折・波乱万丈 」な 歴史を 赤裸々に 語ってくれた、「 ナカサン プロジェクト 代表・中村 行男氏 」。
ワールドジェットスポーツマガジン「2025年 5 月号・CONTENTS」
【P48~P93】特集1・マクラーレン「 ARTURA 」、 【P94~P143】特集2・「 ナカサン プロジェクト 」物語、 【P144~P177】特集3・世界最高のレース・パーツと言われた「 PJS 物語 」、
【P178~P197】特集4・DEVIL村尾「1978年製 JS 440」、 【P198~P205】特集5・小嶋 松久 氏に 聞く「 440 秘話 」、
【P206~P217】特集6・「 ふたつのYAMAHA 」ジェット専用オーディオ・開発秘話!、 【P218~P239】特集7・ジャパン・インターナショナル・ボートショー2025。
【P226】日本ボートオブザイアー部門賞、 【P235】東京モーターサイクルショー、 【P240~P243】特集8・新たなるレジャー「リフトEフォイル」。
最新号の目次&内容
【※タイトル隣の"ページ数"をクリックすると本紙に…】
特集1 The first hybrid car from McLaren ARTURAEA【P48~P93】
―マクラーレン初のハイブリットカー「 ARTURA 」―
特集2 First aftermarket parts manufacturer in Japan【P94~P143】
―国産初のアフターパーツ「 ナカサン プロジェクト 」―
特集3 PJS, the jet ski that the whole world wanted【P144~P177】
―世界中で 一世風靡した アフターパーツメーカー 「 PJS 」―
特集4 Jet Sports History ORIGIN - “DEVIL” Murao【P178~P197】
―DEVIL村尾・完全オリジナル「1978年製 JS 440」―
特集5 Interview with Mr. Matsuhisa Kojima【P198~P205】
―小嶋 松久 氏に 聞く「 1970年代の JS 440 秘話 」―
特集6 “Two Yamahas,One Passion”【P206~P217】
―「 ふたつのYAMAHA 」が共同開発!ジェット専用オーディオ―
特集7 Japan International Boat Show held【P218~P239】
―ジャパン・インターナショナル・ボートショー2025―
特集8 LIFT eFoil, NEW trend in the marine sports【P240~P243】
―マリンスポーツのNEWトレンド「LIFT eFoil」―

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