
2025年11月30日(日)、静岡県浜松市に本社を置く輸送機器及び機械工業メーカー「スズキ」のオートバイの「レース関係者懇親会」が行われた。
今回、編集部は、パーティーの発起人のひとりである日本パワーボート協会会長、小嶋松久氏に招待されて出席させていただいた。
小嶋氏は、1976年の富士スピードウェイで、日本で初めて国産のF1マシンを作った「コジマエンジニアリング」の代表である。
氏は、高校時代から「スズキ専属レーサー」として、ダートトラックレースやモトクロスのレースで活躍。
「MFJ 第1回モトクロス日本グランプリ」での優勝をはじめ、数々の大会で勝利を収め、当時、国内の250ccクラスでは「無敵」と呼ばれていた。
会場には、小嶋氏をはじめとする往年の名ライダーやスズキのレース関係者が、300名以上も集まった歴史的な日となった。
往年の名ライダーやスズキのレース関係者が、300名以上も集まる盛大な会となった。二輪のレースの歴史は意外と古い。
1896年(明治29年)に、日本で初めてオートバイが人前に姿を見せた(自動自転車公開試運転)。
本格的な二輪自動車レースは、1912年(明治45年)に兵庫県の鳴尾競馬場で行われた「第1回自動自転車競走会」が最初である。
その後もさまざまなオートバイレースはあったが、大規模なレースが行われ始めたのは太平洋戦争が終わってからだ。
メーカーが次々と市場に参入し、新しいオートバイが発売されるようになった。
スズキも、そのなかのひとつであった。
以後、多くのバイクメーカーが誕生し、一時期は200以上もの会社があったが、徐々に淘汰されていく。
1968年以降は「ホンダ」「ヤマハ」「カワサキ」「スズキ」の「4大メーカー時代」に突入した。
◆
小嶋氏がスズキのファクトリーライダーとして活動し始めたのは1960年(昭和35年)というから、まさに国内のオートバイレースの黎明期である。
今回、モータースポーツの礎を支えた1人である小嶋氏に、二輪時代の話を聞いた。
今しか聞けない「血の通った歴史」は本当に面白い。
写真左から、小嶋松久氏、北野元氏、星野一義氏。名前を聞くだけで、その偉業が思い出せる方々だ。 WJS 最初にお伺いしたいのですが、小嶋さんがオートバイに乗り始めたのはいつからですか?
小嶋 初めてオートバイに乗ったのは、おそらく8~9歳くらいやろうね。
親父が京都で青果、果実の卸業をしていたから、番頭用や集金用とかのオートバイがうちの会社にはあったわけで、それに乗る機会とか触る機会があってね。
足が届かないから一升瓶の箱を置いてもらって、そのケースの上にまず乗って、それからオートバイにまたがって走る。
途中で止まると足がつかないから、町内一周して家まで帰ってきてそこで止まる、という感じで、小学校3年くらいから乗ってました。
WJS 子供のころから、オートバイは身近な存在だったのですね?
小嶋 僕の家の隣の町内に、小さい中学のグラウンドがあったんだけど、そこで年に1回オートレースがあったり、京都の平安神宮の真ん前にもグラウンドでオートレースがあったりと、意外とお祭りなんかで「オートレース」はあったんよね。
WJS 本格的にオートバイに乗り始めたのはいつですか?
小嶋 当時は50ccの免許が14歳で取れたから、14歳で免許を取って50ccのオートバイを買ってもらった。
中学のとき、僕の中学の担任の先生とか仲の良かった先生が、オートバイがすごい好きな人で、たまに「ちょっと、何時間目さぼろうか」って、先生と一緒に琵琶湖一周走ってきたりとかありましたね。
WJS 話の分かる先生がいたのですね。今なら、考えられないような話です。
いつから本格的にレースに出場し始めたのですか?
小嶋 初めてレースに出場したのは、1959年、15歳のとき。「ちょっと走ってみるか」ということで、レースをやりだしたわけです。
京都で行われたダートトラックレース(※未舗装の周回路〔トラック〕上で行われるレース)だった。
WJS 最初は、モトクロスではなかったのですね?
小嶋 ダートのほうが花形やったからね。
レースは北海道から九州までやってたし、それだけオートレース場があった。
ギャンブルのオートバイとは違う、普通のオートバイでのダートのレースやね。 今の競輪とかと同じように、プロの人がやっていました。
ダートはガキの頃からずっと見てきたし、15歳のときから自分も走ってて自信もあった。 10年くらいは、ダートで負けたことがなかったね。
1回くらいかな、負けたのは。
WJS スズキでも、ダートレースに出場していたのですか?
小嶋 スズキはモトクロスをメインに考えてたけども、僕らは「ダートを走らせてもらえるから、モトクロスもやってもエエわ」という感じだった。
僕はダートが好きで、モトクロスは嫌々やっていた。
西日本の人間って、みんなそうだったんですよ。
19歳のときに、レースで足に大きなケガをしたんですが、ケガしてからも1967年くらい(23歳)まではダートをやってました。
でも、ダートレースがだんだんなくなってきたし、「モトクロスに力を入れないと」となってきた。
1968年ごろ。練習に行く様子。WJS いつから、スズキのファクトリーライダーになったのですか?
小嶋 高校に行きながら16歳からスズキで乗り始めて、17歳の時に正式にスズキとライダー契約を結んだ。
あの頃はまだオートバイ人口も少なかったし、ある程度体が大きくて、若かったら誰でもオートバイを貸してくれた。
「速くなりそうなヤツは、とにかく抑えておけ」って。
二軍か三軍みたいな感じで、メーカーも「とりあえず唾つけとけ」みたいな感じでだった。
僕は特に若かったから、特に待遇が良かったね。
WJS どういった契約内容だったのですか?
小嶋 正式に契約する前はアルバイトという形で、金曜日、土曜日は公開練習。
日曜日にレースで、3~5万円(当時)くらいもらってたのかな。
ただ1カ月に1回以上は、地方でレースがあったからね。
当時は新幹線もないし、浜松で集合して、浜松から連れていかれた時もあったし、家に帰って来るまで1週間くらいかかるんです。
レースが雨で1週間延びたら、10日間くらい学校には行かない。
学校は大分、さぼったね。
WJS よく、高校側がレースを許してくれましたね?
小嶋 学校は、いい顔はしていなかった。
僕らが高校生の時、オートバイとか自動車の「免許を取らないようにしよう」というのが、学校の方針やった。
交通事故なんてもんは、乗ってても巻き込まれるし、乗せてもらってても巻き込まれる。
なら、乗らない方がもっとええやろうという考えですよね。
WJS 地方でレースがあるときは、学校はどうしていたのですか?
小嶋 北海道から九州まで、ドサまわりのレースに行ってるから、年に3分の1くらいは学校を休む。
だから、単位がギリギリか足りない。
いつも「風邪ひきました」といって休んでるのに、登校したら手をケガしてたり、真っ黒になってる。
「病気なのに、えらい日焼けしてるな」と言いつつ、ものすごく大目に見てくれてた(笑)。
そういう面では、僕はすごい恵まれてましたよね。
浜松オートレース場にて。小嶋氏が17、18歳ごろ。オープンクラスBSA500のスタート待機中。このころまでは、ダートトラックレース以外は眼中になかった。WJS 契約ライダーというのは、何をするのですか?
オートバイに乗るだけでいいのですか?
小嶋 当時のスズキは、静岡大学で燃焼学の教授だった人を連れてきて、研究所の所長に据えていました。
「エルンスト・デグナー」という、東ドイツから亡命して日本に来て、スズキのレースのオートバイの歴史をずっと支えた人がいたんです。
その人は、選手であり、メカニックでもあり、チューナーでもある優れた人だった。
だから、「スズキの系統」というのは、「レースも肝心やけども、メカニックとしても十人並みにできるようになれ」といわれていた。
僕もそういうところで育った人間だから、整備も何もかも全部させてもらえました。
WJS 他のメーカーは違うのですか?
小嶋 他のメーカーは乗るだけ。
「整備」というのは、全然、評価の中に入ってなかったんですよ。
でもスズキは両方とも必要だった。
「あいつは整備もできるし、レースもできる」というのが評価に入っていた。
「自分らの乗るオートバイは、自分らでやれよ」というのが原則やったからね。
だから、僕は今でも、機械ものは溶接から何から全部、自分でできます。
全部、17歳くらいからの経験だからね。
1964年の第1回モトクロス日本グランプリ。優勝は小嶋氏。2位が長谷見昌弘氏、3位が黒沢元治氏。WJS スズキのファクトリーチームというのは、いくつもあったのですか?
小嶋 当時、僕らは「関西のチーム」として「ひとつの集団」だった。
東京、東北、関西、九州と、それぞれスズキの出先チームがあったわけやね。
当時、セニア、エキスパート、ノービスってクラスがあって、セニアはメーカー関係の人間が多かった。
いろんなメーカーのチームがあるなかで、「全部勝て」と言うんですよ。
「アマチュアクラスはアマチュアクラスで勝て」「ジュニアはジュニアで勝ってくれ」って。
ダートが年に3回くらい、モトクロスは10回くらいレースがあったのかな。
50、90、125、250cc全部走って、「全部勝ってこい」と無茶を言う。
WJS かなり厳しい要求ですね。
小嶋 現実に、半分以上は勝ってましたし、勝たなやっていけなかった。
もちろん全クラス勝ったこともあるし、そうじゃないときもある。
でも、半分は勝たないと社長の顔色は悪かった。
壊れると困るからオートバイはぎょうさん持っていかないといけないし、メカニックもある程度必要になる。
いくら自分らが整備するっていったって、1人でオートバイを4台も5台も持っていくのだから、そりゃ手が足りない。
それで、クラブ単位でけっこう大きなお金が動くようになってくるわけですよ。
一番トップは、浜松のスズキの研究所。
お金もぎょうさんあるし、レースも海外から国内から全部やってたしね。
京都・将軍塚で練習中の小嶋氏。WJS それでも人手が足りないことはありますよね?
小嶋 あるとき、東京のレースに行くのに浜松に寄ったら、生産車のクレームが出て大変なことになっているからメカニックを出せないという。
「お前らだけで頑張って行ってこい」と言われた。
でも、メカニックも付いて来れないようなレースで、満足に走れないなら我々も格好悪いし、スズキも体裁が悪い。
「そんなレースはやるな」と、うちは全員「さよなら」って帰ったんです。
メーカーでも、プライベートであっても、レースというのは「満足に走れないようなレースだったら出ない方がマシ」。
「メカニックが足りない」「このオートバイでレースをする必要がない」だったら、もっと良くしてから再スタートしようというのが、昔から僕の考えです。
それは僕の基本的な考え方だから、曲げられない。
だから「もう帰る」ってなったんですよね。
1967年10月、当時珍しいモトクロスの耐久レースで優勝。このモデルが、1965年、66年、67年のトラブルを全て解消し、68年以降のスズキの世界制覇に向けての集大成となる。WJS 会社の看板を背負っている以上、それは当然のことだと思います。
モトクロスレースで、海外にも行かれていますよね?
スズキが、モトクロスの世界選手権に初挑戦をしたのが1965年。
小嶋さんは、翌1966年(22歳)と67年(23歳)の2年連続で、スズキのワークスライダーとして、世界選手権に挑戦しています。
当時のロードレースの分野では、1959年のホンダ、1960年のスズキに続き、ヤマハも世界選手権ロードレースに参戦。
「日本が勝って当たり前」「日本の“どのメーカー”が勝つか」という状況でした。
小嶋 ロードレースは、マン島(イギリス王室属領)などの特殊なところ以外は、日本でも同じサーキット。
同じサーキットで何十年勝っても、その知名度やコマーシャルは広がらない。
そのなかで、世界中でスズキのオートバイの知名度を広めないといけない。
そこで、「今度はモトクロスをやろう」と言い出した。
それで、僕らが一番若手で乗れてたから、「小嶋たちを連れて行け」となった。
ロードレースでは、スズキもヤマハもホンダも、それなりのクラスでは世界チャンピオンになっている。
日本が勝って当たり前だったから、会社からしたらモトクロスも2年、3年で勝つオートバイにするやろうと思っていた。
だけど、モトクロスなんかは、ヨーロッパで走ってるような、本格的な「優秀なオートバイ」と言うのを見たことがないし、乗ったこともない。
でも、それをスズキで「拵えよう」と、モトクロスに力を入れ始めたわけです。
写真左から2番目が小嶋氏。これから遠征に出かける。WJS 実際に、海外で走っていかがでしたか?
小嶋 ただ、それはちょっと時代が早すぎた。
当時、会社としては勝ちに行ってました。
でも、実際に行くとレベルが違う。
オートバイも違う、人間も違う。
モトクロスなんかは、同じレベルで曲がっていったら、同じところがバンクになって20センチくらいの溝ができるんですよね。
その溝を上手に入っていかな、結果的にカウンターを切ることになる。
「カウンターを切る」ということは、後ろが流れているから遅くなる。
それだったらバンクを利用している方が速い。
時速100キロなら100キロからブレーキをポンポンとかけて、バンクをクルッと回るという技術は、簡単にできるものではない。
そういうののレベルが違う、歴史が違う。
それに合うようなオートバイ、選手を定着させていくのに2~3年はかかるなって思いましたね。
オートバイはまだ問題ばかりなのに、会社の販売計画の方が先に乗ってしまえば、「この年からエントリーね」と言われ「これ、ほんまに計画をずらせないの?」って。
会社は、オートバイが簡単にできると思ってたんやね。
WJS 会社としては、「行くからには勝て」と言いますよね?
小嶋 会社の課長らは、全然感覚が違う。
「行ったら、当然勝ってくれるやろ」「優勝して日の丸を上げなあかんから、日の丸を持っていこう」って。
こっちは3周持つか5周持つか分からないってときに、会社は「日の丸を持っていかなあかん」って。もうズレ過ぎてるんよね。
「そんな簡単なことではない」と言うてもアカンかった。
写真左:浅間山のテストコースにて。125cc X5。WJS マシンが壊れるのですか?
小嶋 毎レース、オートバイのフレームがちぎれるんですよ。
ひっくり返ったり、転びかけたりとかね。
当時、50ccでも3気筒、125なんかは4気筒だった。
それが、「トルクがいるから」といって、単気筒をこしらえる。
単気筒の250とか500というのはあまり経験がないから、びっくりするくらいバイブレーションが出る。
WJS それは、スピードに耐えられないのですか?
小嶋 走ってるスピードに耐えられなくて折れるんじゃなくて、「バイブレーションで、フレームが折れる」んですよ。
根本的に、「どこにバイブレーションが集まっているのか」「そのバイブレーションのパイプが、どこからちぎれてるのか」そういうのすらなかなか分からない。
普通、ないものを作るときは、世界中のオートバイを買う。
でも、モトクロスの時は自信過剰で、「ロードレースで世界制覇したんだから、モトクロスの単コロこしらえるくらい、朝飯前やろ」って。
「単コロのそんなもん買うて、どうすんねん」「他メーカーのオートバイなんて、買う必要もないやろ」って。
単コロは単コロなりの、独特のノウハウがあったんやけどね。
どこに問題があるのか、基本が分かるまで1年半くらいかかった。
ホンダは6気筒と多気筒でいってたから、バイブレーションが怖くないんですよね。
スズキがモトクロスの世界選手権に初挑戦をした1965年のライダーが久保和夫氏(写真左)。翌1966年からは小嶋氏(左)と久保氏、通訳兼監督の3人で 世界に挑んだ。WJS 海外でマシンが壊れたらどうするのですか?
小嶋 メカニックも兼ねていたので、マシンが壊れるたびに日本に連絡を入れて、必要な部品を海外に送ってもらいながら転戦をしていた。
トランスポーターの後ろの荷物台の中でオートバイ組んでドイツに行ったりとか、イタリア行ったりとか、そんなことをしていたわけやね。
アムステルダムがベースで、その近所の民宿みたいなところに泊まってたんです。
まだテレックスの時代、国際電話なんか高くてなかなかさせてくれない。
だから、毎レース、テレックスを打って、次のレースまでに、「どこが折れたから、ひとまわり太くしろ」とか、「どういうフレームに変えろ」って本社に連絡をする。
そしたら、オートバイのフレームだけ飛行機で送られて来る。
飛行場でそれをピックアップして、ライトバンの屋根に届いたフレームを積んでね。
エンジンとかフロントフォークをまわりに置いといて、通訳兼監督で来てる課長に運転させて、「さあ、ドイツ行こうか、フランス行こうか」って。
ライトバンの天井のフレームにオートバイを吊って、次の現場に行くまでに組み立てて、何とかオートバイの形になってる。
そういうことも、2年くらいやったかね。
でも本当は、そんなことしてレースに行く必要はないんですよ。
日本でテストをしてたら、全部出る結果ばかりやからね。
その当時、行く前から、「行かしてくれるのはいいけども、まだ行く必要がないオートバイやで」というのが僕らの考えでね。まぐれでもないと勝てない。
ヨーロッパは、オートバイもよかったけど、ライダーが速かった。
「これは、3年か5年はかかるな」と思いましたね。
手探り状態で作られた初期モデルRH250。ここから完成された68モデルが生まれる。写真は1967年のベルギーでの世界選手権。WJS その後、1970年の世界選手権250ccクラスは、スズキが圧勝でした。
1965年に初参戦した当初は完走すら難しかったのに、予想通り5年で日本のマシンが世界の頂点に立ちました。
小嶋さん自身は、いつオートバイレースから引退したのですか?
小嶋 1968年、24歳のときやね。
もともと親父との約束で、家業を継ぐことになっていた。
京都に帰るたびに「結婚せえ」か、「オートバイをやめろ」のどっちかだった。
それでも23歳くらいまでは、賛成はしてないけれど走らせてくれていた。
24歳くらい(1968年ごろ)のときに、故・鈴木修さん(スズキ株式会社相談役)が、研究所の所長と2人で家に来たことがあります。
「契約更新やし、喜んでもらえる」と修さんは思ってたみたいなんですけど、うちの親父に「今年いっぱいで辞めさせてくれ」と、えらい怒られてました。
WJS 京都に戻られた後も、オートバイを作っていましたよね?
小嶋 京都に戻ったあとも、ディーラーからの要望もあり、「それなら、京都で市販のオートバイ(レーサーレプリカ)を拵えたろか」と作ったのがコジマエンジニアリングです。
昔は「市販レーサー」っていうのがなかったんで、技術の連中は、「小嶋君、そんなこと言ったって、これは量産できへんのや」という。
「なら量産できるように、できへん部分だけ直していったらええやないか」「1台でも、メーカーが走らせてるのに近いやつを売るのが、本物のメーカーちゃうんか。世界チャンピオンになったら、なったなりのオートバイを売ってやらなあかんのや。偽物ばかり売ったらあかんのや」って。
そこで、ウチ(コジマエンジニアリング)が代わりに「市販レーサー」を造ってディーラーに納めていた。
スズキから来た新品のオートバイを京都へ持ってきて、全部バラして、一からレース用に改造して組み直す。
僕らが拵えていたレース用に、ちょっとでも近づけてあげる。
もちろん家業も手伝わないといけなかったので、実家の隣に会社を作ってそこでオートバイを拵えてました。
その後、四輪へ移っていくことになります。
コジマエンジニアリングで製作されたレーサーレプリカモデル。その2年後、本家・スズキが同じようにレーサーレプリカモデルを発売したこともあり、以前から興味のあった四輪レースへと興味が向かう。
時代の流れは四輪へ移っていることを感じていた小嶋氏は、自身も四輪へ転向を考えていた。
当時の四輪レースは、メーカーがレーシングドライバーを募集するにあたり、速く走らせる経験をもった「二輪のレーサー」を採用していた。
二輪から四輪に転向した有力ドライバーは、長谷見昌弘選手、星野一義選手、生沢徹選手、高橋国光選手、北野元選手、黒澤元治選手など多数に及んだ。
特に日産は、積極的に二輪ライダーを自社のドライバーとして採用したことでも有名だ。
二輪レーサーが四輪に“大移動”した1963~64年ごろ、小嶋氏はちょうど足の大ケガで入院していたそうだ。
もし、入院していなかったら、そのときにレーサーとして四輪のレースに移っていたかもしれないという。
そうなると、ヨーロッパ戦への出場もなく、その後の歴史も大きく変わっていたことだろう。
運命の巡り合わせとはつくづく面白い。
小嶋氏の話を聞いて思うのだった。
小嶋氏(写真右下)は、日本で初めて国産のF1マシン「KE007」を作った「コジマエンジニアリング」の代表である。関連記事
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