今回紹介する中地淳一さんは、80歳の現役レーサー。若いころからモータースポーツの“とりこ”になり、バイク、パワーボート、スノーモービル、水上バイクをこよなく愛している人です。
中地さんは、今から59年前の1962年、21歳のときに「鈴鹿サーキット」で初めて行われた「第1回全日本選手権ロードレース大会」にも出場しています。バイクのロードレースやモトクロスにおいて、日本人の先駆者的存在です。
また、パワーボートの世界では、「コジマエンジニアリング(KE)」に所属しています。「KE」といえば、1976年の富士スピードウェイで日本で初めて国産のF1マシンを走らせた小嶋松久氏が率いるチームです。
ちなみに、4輪のレーシングドライバー・星野一義選手や長谷見昌弘選手は、中地さんと同じ合宿所で、同じ釜のメシを食べていた仲間。「彼らもKE。コジマ一門出身」と言い、日本のモータースポーツの草分け的存在の一人です。
今回のテーマは「現役」です。年齢を重ねると、第一線から退いて裏方にまわる人が多い中、中地さんは「引退」という道を選ばず、「現役」で走り続けている部分に魅力を感じます。編集部は、以前からレースで中地さんが走る姿を見ていたので、何の疑問もなく、それが「当たり前」だと思っていました。 しかし、世間一般的には、65歳を過ぎたら会社は定年退職で、75歳を過ぎたら「後期高齢者」と呼ばれます。
中地 淳一(なかじ じゅんいち)さん 1941年(昭和16年)4月28日生まれ。
WJS よろしくお願いします。今日は、ジェットスポーツの現役最年長レーサー・中地淳一さんに話を伺いたくて来ました。中地さんが、最初にジェットに出会ったのはいつですか?
中地 1981年ごろじゃなかったかな。ちょっと定かじゃないんだけど40歳くらいだね。そのころはまだ、日本でジェットが売られていなかった。カワサキが販売を始めたのが83年ぐらいで、コジマエンジニアリング(日本初の国産マシンで、F1に参戦したファクトリー)が、アメリカの販売権を持っていた。日本のカワサキが、譲ってもらいに来てたくらいで、ジェットはそのころからですね。
WJS コジマエンジニアリングが、ジェットを扱っていたのですか?
中地 そう。でも大々的に販売なんてする気がなかった。たまにコンテナにいっぱいJS 550を仕入れて、売るぐらい。
WJS 中地さんは、若いころから、モトクロス、バイク、ジェット、パワーボート、スノーモービルと、いろいろなモータースポーツのレースに出場されていたという話を良く聞きます。
中地 レースに明け暮れた人生やったね。
WJS お若いころは、何をされていたのですか?
中地 働きながら夜間高校に通っていたけど、結局、高校は辞めてしまった。あのころ、中学を出て、高校に行ってるヤツなんて、クラスの半分ぐらいだった。昭和32年ごろの話やね。
WJS レースの世界へ入ったきっかけは何だったのですか?
中地 若いころ、ガソリンスタンドで働いていて、早い話、「カミナリ族」やってん。カミナリ族になったんが20歳くらい。今でいう暴走族と一緒やけど、そんなに悪いことはせえへんよ。ただ走るだけ。仲間と日曜の夜に集まって走っただけやで。カミナリ族やから、強烈にやかましい音やったけどね。
WJS 今でいう、スーパーカーで走っている感覚ですか?
中地 そうそう、そんな感じ。
WJS そのころ乗っていたオートバイは何ですか?
中地 キャブトン(みづほ自動車製作所)の600cc。カワサキのメグロっていうバイクと、同じような感じだった。キャブトンマフラーってあるでしょ、そこのバイクでカミナリ族してた。当時は、自転車に50㏄のエンジンがついているような小さなバイクしか走っていなかったからね。オートバイ自体の数がない時代やから、乗ってると皆が驚いた。その後に買ったのが、ホンダ300cc。通称CB77っていうバイクを買って改造して、ロードレースに出だした。
WJS ホンダCB77は、1962年に鈴鹿サーキットで行われた「第1回全日本選手権ロードレース大会」で走ったバイクですか?
中地 そうそう、俺が自分で市販車を買って改造した。まともなレーサー志向の若者だったら、もっと本格的にレースやって、とっくの昔に引退しているはずが、滅多にいないカミナリ族出身やったから異色の存在やね。右も左も分からないまま、夢中でレースを走っていた。あのころはまだ、コジマエンジニアリング(KE)の小嶋松久会長とも知り合ってなくて、地元の友達と頑張ってた。
WJS 何というチームだったのですか?
中地 KHK。関西阪奈会いうて、今でも僕のチームです。
WJS そのチーム名で、鈴鹿も走ったのですか?
中地 ハハハ、そこは個人名で出ました。カミナリ族がレースなんてナシです。暴走族がレーサーなんて聞かないでしょう。
WJS 大型バイクなんて誰も乗っていなかった時代に、カミナリ族だったということにも驚きました。
中地 若気の至りやね(笑)。ロードレースからモトクロスのレースに参戦するようになってからは、KEの小嶋会長のところに行き来するようになっていた。
当時、小嶋会長はスズキのワークスレーサーから独立して、KEを経営していたんだけど、どこのバイクメーカーも、モトクロスバイクなんて販売していなかった時代です。
KEは、スズキの市販バイクを、本格的なモトクロスバイクにカスタムして、レーシングマシンとして販売していた。自分の友達も、KEでバイクを購入して、レースに参戦していました。
WJS 中地さんは、ご自分のジェットのエンジンも、ご自分で触られていますが、そのころに勉強されたのですか?
中地 モトクロスもロードレースも、自分が出場するレースは、全部、自分で改造して参戦していた。独学で一生懸命勉強して覚えたんだけど、かなり難しかった。なにより、当時は部品が手に入りにくかったからね。
WJS レースマシンを作るのと乗るでは、どちらが向いていましたか?
中地 今考えたら、作る方が向いていたと思う。自分は根性入れて走らへんの、あまり練習しないから。速いマシンを作って、乗るのが好きなタイプやった。
WJS 中地さんや小嶋さんのお話を伺っていると、本当に、日本のモータースポーツの黎明期に活躍されていたことが分かります。テレビでよく聞く名前、例えば4輪のレーシングドライバーの星野一義選手や長谷見昌弘選手のことを、「ホシノ」「ハセミ」と、まるで自分の息子のように呼んでいますよね。
中地 彼らはKE、コジマ一門出身やからね。日本のレースシーンは2輪から始まって、小嶋会長も、元はスズキのバイクのロードレーサーで、F3000を経てF1チームを作った。星野一義もバイクのレーサーだったんよ。
彼もカワサキにおったから、民宿も一緒。モトクロスのレースも、よく一緒やった。レースは狭い世界。小嶋会長みたいに大きいエンジンが扱えると、皆が聞きに行ったもんや。
WJS パワーボートを始めたのはいつですか?
中地 1974年(昭和49年)かな。パワーボートをやりながら、ウェットバイク(スズキのエンジンを積んだジェット、現在は絶版)にも乗っていた。
WJS 1974年にパワーボートを始めて、レースにも出ていたのですか?
中地 そうやけど、始めてから2、3年は全く勝てなかった。エンジンがすぐ壊れるし、完走できない。ビッグエンジンが得意な小嶋会長に、よく助けてもらいました。当時、小嶋会長はF1マシンを造っていて、パワーボートには無関心だったけど、エンジンにはとても詳しかった。
WJS 中地さんのパワーボートは、何が悪かったのですか?
中地 名古屋の東海マリンが作った試作艇だったけど、全然あかんかった。2~3周ですぐ壊れた。そのあとにV8エンジンを勉強して直せるようになったけど、そのころはまだ無理だった。
WJS それで、1974年ごろ大きくて壊れないパワーボートを買いに、小嶋会長と、本場のアメリカに行ったのですね?
中地 はい。千葉さんっていう人がいて、ロードレースの関係者なんですが、彼が大昔からロッキー青木さんの日本でのマネージャーだった。彼と話をつけて、「どうせ行くなら本場のレースに出よう。買った船で、本場アメリカのメジャーなビックレースに出て、そのまま持って帰ればよい」 ということで渡米した。
WJS やっていることが、かなり豪快ですね。
中地 1976年(昭和51年)ごろ、小嶋会長と僕の相棒とで行ったんだけど、そのとき、レース会場になっているマイアミの一流ホテルで、門前払いをくらって追い出された。「東洋人など出ていけ!」って。レセプションからレースまで、全部そのホテルが会場になっていて、そこが目的地なのにエライ目に遭いました。
WJS それで、レースに出られなかったのですか?
中地 ロッキー青木さんがいると、大丈夫なことに驚いた。このとき、ロッキー青木さんのレースボートを買いに行ったんやけど、ロッキーさんはUSパワーボートのレースに参加するだけでなく、メインスポンサーを務めるぐらいの貢献度があった。アメリカで、レストランチェーン「BENIHANA」で大成功したからね。そのおかげで大丈夫だった。
WJS アメリカのパワーボートのレースは、日本と全然違うのですか?
中地 スケールが全く違う。走っているボートの大きさもデカいし、全てにおいてレベルが違いすぎた。
WJS 日本人が太刀打ちできるような世界ではなかったのですか?
中地 全然だね。それで、ロッキーさんから購入した船を5年ほど日本で走らせたけど、壊れたとき以外、負け知らずだった。僕らのその船を見て、他の資金力のある日本人たちが、アメリカから大きなボートを買い出したんです。
WJS 私たちが認識しているパワーボート。「お金持ちの戦い、ビッグボートによる優雅な戦い」ですね?
中地 そのころ、ちょうどバブルが来たからね。金にモノを言わせた、すごい世界に変わった。
WJS 中地さんは、そのころジェットにも乗られていたのですか?
中地 はい。1986年ごろ、僕はJS 550よりJS 650X-2のほうが好きで、アメリカのシェルドン・メシックっていうX-2チャンピオンに、X-2のコンプリートマシンを作らせて、日本で販売していた。そのシェルドンの作ったマシンで、1987年にアメリカのワールドファイナルに出場して、X-2モデファイデイで4位になった。そのとき、X-2クラスは70台くらいエントリーしていましたよ。予選を3回やって、やっと決勝ヒートっていうくらい人が多かった。
WJS 日本人で最初にアメリカのレースに出たのは、中地さんだったのですね?
中地 当時は、他には誰も行っていないと思う。マシンを作ってもらったシェルドンは、その前の年にX-2クラスで世界チャンピオンになっていました。僕が行った年はキャブの故障でリタイヤしたけど、僕のレースボートも作って、彼も自分のマシンで同じX-2クラスに参戦していた。練習も一緒に走ったけど、シェルドンのマシンは速かったね。
WJS 日本でも、ジェットのレースはあったのですか?
中地 カワサキのJJSBAで、1984年からJS 550のレースはあった。X-2はまだエキシビションって感じ。650X-2自体は、アメリカでは1986年から販売を開始していたけど、確か国内のX-2のレースが正式に始まったのは1991年だった。
WJS 国内で正式に販売される前に、アメリカの世界チャンピオン(シェルドン)のコンプリートボートを日本で乗られていたのですね?
中地 そのマシンを、日本で同じような仕様に改造して販売もしていた。当時、良く売れたんよ。
WJS 当時も、国内のレースには、ずっと出場されていたのですか?
中地 ずっと出てたんだけど、1992年ごろにプロテストがあって、そのときジャッジミスで落とされたので腹が立った。それが嫌で、少し距離をおいてマスターズだけ出てた。
WJS 世界2位になった紅矢俊栄選手も、中地さんのチーム員だったと聞きました。
中地 「日本ブレッドレーシング」って言って、紅矢君はスポーツクラスのトップライダー。ブレッドのHXに乗っていた。もう一人、ヤマハに乗っていた脇田(駒春)君というのもチーム員で、普段は友達だけど、レースになるとバチバチと火花を散らせとった。
WJS 中地さんは、パワーボート、モトクロスバイク、ジェットスキーと、全てのレースに参戦されていたのですか?
中地 うん。みんな同時期やな。
WJS 話は変わりますが、今80歳で、現役でレースに出場されています。今年4月の大会でも、650X-2で出場されていました。体が辛かったり、翌日、筋肉痛で立ち上がれないということはないのですか?
中地 ないです。明日、「モトクロスのレースで走れ」って言われても、レースに出れます。毎日でも、ちゃんと走れる自信があります。
WJS なぜ、そんなことが出来るのですか?
中地 ジェットもモトクロスもスノーモービルも、極めたら疲れない。乗るのが楽しいだけ。歩けと言われたら辛いけど、エンジンがついていれば大丈夫です。
WJS 数年前、雪山で、中地さんにスノーモービルの乗り方を教わったときも、驚くほどお上手でした。
中地 スノーモービルも40年近く乗っているからね。
WJS スノーモービルのレースにも出場されているのですか?
中地 あれは東北まで行かなきゃいかんから、出場していない。
WJS 最後に質問です。なぜ、これほど長くレースを続けていられるのですか?
中地 楽しいからやっているだけ。お金儲けじゃない。だから、「遊び」やね。
WJS それだけ長い間「遊んで」いられるのは、大変素晴らしいことだと思います。
中地 極めたらエエねん。疲れへんから、長持ちする。来年も参戦する、練習せえへんくせに、勝つ気だけはなくならへん。「勝ったろ」って思うからやめられへんし、おもろいんやろって思う。レースは遊びや。
WJS 年齢の壁を感じることはないのですか?
中地 そんなん、もうとうに過ぎてしもうたし、僕にはなかった気がする。楽しい、引退とかレースをやめるなんて、考えたこともないね。
戦後の日本は、1億総中流社会と言われ、皆、同じ、平均的な生き方が”良し”とされてきました。中地さんのような好きな趣味を続ける生き方は、「異色」とされたはずです。自分の好きなことを”やり続ける”生き方に憧れます。 そして保守的な時代に、自我を貫いた中地さんのような生き方に尊敬と称賛の念を禁じ得ません。いくら長生きが出来ても体が動けないと楽しめないような気がします。
2000年では男性の平均寿命が約77歳だったのに、2020年では80歳を越え、その先さらに延びていくと予想されています。「人生100年時代」と言われる現代において、寝たきりの100歳よりも、その年齢になっても、後輩に背中を見せて尊敬される人でいたいものです。
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