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国産初のF1「KE007」が富士スピードウェイを走った日 コジマエンジニアリング・小嶋松久氏が語る Vol.1 ジェットスキー(水上バイク)

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大手メーカーではないプライベーターが、自動車の世界最高峰レース「フォーミュラー1」に参戦するまで

1976年の富士スピードウェイで、日本で初めて国産のF1マシンが走った。それを造ったのは「コジマエンジニアリング」という会社である。その代表が小嶋松久氏である。

後に小嶋氏は、パワーボートの世界で頭角を現し、現在は日本パワーボート協会の会長を務めている。前々回の記事を掲載した際、「F1参戦時の話をもっと聞きたい」という読者の皆様からの声が多数あったので、今回、F1に参入するまでのお話を伺った。日本のモータースポーツ史に残る逸話の当事者だけに、その人にしか語れない内容がとても面白い。今回はその第1回目。

【前々回の記事】 日本パワーボート協会物語 Ver.3 日本人で初めてF1マシンを作った男・小嶋松久氏

このマシンが、伝説の国産初のF1マシン「KE007」。

「KE」の文字をデザイン化したコジマエンジニアリングのエンブレムについて、「当時のスズキ自動車の広報にいた人が作ってくれたんです。自動車のカタチであり、もし世界へ出ていくときには、日本の国旗みたいな部分も入っています」と小嶋氏は語る。このエンブレムは、現在も変わらず使われている。


モータースポーツ史に燦然と輝く「国産初のF1マシン KE007」

『コジマエンジニアリング』設立まで

WJS 小嶋会長は、オートバイレースでは、スズキのファクトリーライダーとして活躍されていました。その後、『コジマエンジニアリング』を設立して、日本初の国産マシンでF1に参戦されています。F1に参戦するまでの経緯を教えていただけますか?
小嶋 高校を卒業してから27歳くらいまでは、スズキ自動車にいました。それで28歳になってから京都に帰って、家業を手伝いながら、『コジマエンジニアリング(以下、KE)』っていう会社を作った。
スズキのスタンダードオートバイ、125とか250の新車をレース用モトクロッサーに改造していた。昔は市販レーサーっていうのがなかった。だから、ウチが代わりに市販レーサーっていうのを造ってディーラーに納めていたんです。

WJS どうして京都に帰られたのですか?
小嶋 親父にも、「レースは25、6歳くらいで辞めて帰れよ」と言われていた。長男やったから、帰らざるを得なかったわけやね。

WJS すると、スズキのレース部門がKEになったのですか?
小嶋 いやいや、違います。僕らが所属していたスズキの研究第3課というところは、海外のレースなんかをやる課だったわけやね。そこで、レースのオートバイばっかり開発してた。僕が京都に帰ってから、ディーラーの要望もあったから、「それなら、京都で市販のオートバイをこしらえたろか」と作ったのがコジマエンジニアリング。
最初は、スズキの子会社でっていう話もあったけど、僕が子会社っていうのが嫌だから「勝手にウチでやるよ」って。それで、スズキの特殊な販売店っていう、ディーラー以上の扱いをしてくれた。

WJS KEでは、最初、バイクのレースマシンを造っていたのですか?
小嶋 スズキから来た新品のオートバイをウチでバラシて、レース用に改造して、新しいフェンダーパーツをこしらえて、ウチからディーラーに納めるという形やね。
一番やっかいなのは、普通のお客さんっていうのは、スズキのオートバイが250でグランプリに優勝したら、それが市販のオートバイだと思っている。我々が乗っているレースのオートバイと、市販のオートバイでは全く違う。でも、「それじゃあ、詐欺やないか」と言われるから、グランプリに優勝したようなやつに、性能だけちょっと下げて、ヘッドランプ付けたり、方向指示器を付ける。マグネシウムとかチタンの部品はアルミに変えたりとかして、多少コストを下げて、戦力的にはファクトリーのよりもちょっとは落ちるけども、十分、真似事はできるよってくらいのオートバイにしていました。


現在は、日本パワーボート協会の会長を務める小嶋松久氏。

自分が乗るもんくらいは、自分で整備ができないとベストな選手にはなれない!

WJS もともとはオートバイレースのチャンピオンで、メーカーのファクトリーライダーをしていたわけですよね。でも、KEでは小嶋会長がマシンも造っていたのですよね?
小嶋 自動車メーカーもオートバイも、メーカーの一部はものすごく進んでて、あまり表に出したくない研究もしている。僕らの時分は、「自分が乗るもんくらいは、自分で整備ができないとベストな選手にはなれない」というのが、スズキのスタンダードやった。
レースもテストもないときは、自分らの乗るオートバイとか、全然変わった来年度用のレースのオートバイ、「来年はこれでレースをやろう」っていうのをこしらえていくのが日常の仕事だったわけ。熟練の溶接工とか、旋盤ばっかりまわしているおじいさんとか、そういう別会社の技術の現場の長老とかが、ていねいに教えてくれたりした。そういうことをしていたから、特殊溶接とか、特殊なことは全部自分でできる。それができなかったら一人前ではなかったんです。

WJS それで、マシン造りや整備にも詳しいんですね?
小嶋 あの当時は、レースで、少人数でヨーロッパとかへ行くんだけど、便数も少なかった。飛行機で浜松から東京・羽田に送って、そこからアムステルダムに来て、飛行機が着くのを待って通関して、トランスポーターの後ろの荷物台の中でオートバイ組んでドイツに行ったりとか、イタリア行ったりとか、そんなことをしていたわけやね。
ファックスもないし、国際電話をすると高くつく。テープの穴空いたテレックスってやつを、「どこが折れたから、ひとまわり太くしろ」とか、「どういうフレームに変えろ」って本社に打つわけですよ。そしたら、オートバイのフレームだけ送られて来る。
それを、ライトバンの天井のフレームにオートバイを吊って、次の現場に行くまでに組み立てて、現場に行ったらオートバイになってる(笑)。そういうことも、2年くらいやったかね。

WJS ものすごい話ですが、ライダーとしての腕も上手くなるけど、整備の技術も上がりますね?
小嶋 スズキは特に、そういうのが普通やった。他のメーカーは乗るだけの人もいたけど、乗れなくなったり、ケガしたら馘じゃない。ウチらはケガしても乗れなくなっても、メカニックでは雇ってくれる。
レースをずっとやってて、何でも加工もできるし、結構、優秀なメカニックよね。そういうスズキみたいなスタイルをやってるところっていうのは、レース界に長くいられるし、それだけの技術も身につく。溶接屋も板金屋もその当時ならできたし。スズキっていうのは、比較的ファミリー的な会社だった。

WJS 自動車のレースは、いつから本格的に始めたのですか?
小嶋 フロンテとかスバル360をスズキがやり出して、第1回日本グランプリのとき、そのエンジンを「FL550」っていう、一番小さいフォーミュラーに軽四輪のエンジンを積んで走ろうという一番小さいクラスができた。そのエンジンを全国に売ったので、鈴鹿とか富士とかへ行ってお客さんのメンテナンス、エンジン単体の販売をやってあげないといけないということで、それに力を入れだしたんです。

2017年に鈴鹿サーキットでデモ走行したKE007。現在のフォーミュラー1カーとは、随分、形が違う。

「勝てるわけがない」と言われるなか、ポールポジションを取れるタイムを叩き出した

WJS 本格的に、クルマのレースにKEが参入し始めたわけですね?
小嶋 それから、軽四のレーシング部のエンジンの販売とか、フォーミュラーのシャーシ自体も作り出した。「フォーミュラーの一番小さいのをこしらえるっていうことは、もうちょっと上のクラスを勉強しないといかん」ということで、フォーミュラーの1300というクラス(排気量1.3リットルエンジン)をやりだした。
オリジナルシャーシを開発して、ホンダのエンジン積んだりとか、サニーのエンジンを積んだりしてたんだけど、1300を始めたら、今度は「やっぱり、F2くらいのシャーシを勉強しないといかん」となった。ワンクラスずつ、徐々に大きいのをやりだした。1975年の日本グランプリでは、FL500、FJ1300、F2000の予選と決勝、3クラス全てパーフェクトで勝ちました。

WJS いつF1の参戦を決めたのですか?
小嶋 その翌年(1976年)に「富士スピードウェイで3年間、JAFがF1をやります」って発表した。世界グランプリの最終戦を日本で行うっていう3年分の権利を、JAFが取ったわけやね。「3年間だったら、F1をこしらえようか」ということで、今度はF1を始めたんです。

WJS それが、初めてF1の日本GPを戦った国産マシンですよね?
小嶋 そう、「KE-007」っていうやつ。「7」っていう番号は、小さいのから順番にこしらえていって、7種類目ってこと。

WJS 初めて日本で開催されるF1で、実際にレースで走ろうと思ったわけですね?
小嶋 デモンストレーションでなしに、フォーミュラー1を実際のレースで走らせようって。あの当時っていうのは、20台グリッドに付いたフォーミュラーのなかで、特別な自動車っていうかフォーミュラーは、フェラーリとマトラくらいで、あとは20台中16台くらい、フォード系のコスワースっていうレースのエンジンを積んでいた。それくらい、全部コスワースだった。
ミッションはヒューランドっていうイギリスのメーカー。ブレーキはロッキードとかガーリングとか、ショックアブソーバーはコニってのが定番だった。よう考えたら、それを繋いでいるようなもんをこしらえたらいいだけ。
だから僕が富士スピードウェイに初めて出るとき、「ウチは参加するのと違う。勝ちたいよ」と、ハッキリ言ってた。まわりからは「自信過剰」とか「そんなもん、勝てるわけない」とかっていっぱい言われたね。

WJS 初めてのF1参戦ですから、そう言われてしまうのも分かります。それでも、結果を出したのですよね?
小嶋 予選が3回あって、1回目は、1時間のなかで4ラップまわっただけ。
4ラップっていうのは、1周目はタイヤを温める、2周目、3周目はトライアルで、ある程度、トップがどれくらい出るのかなっていうのを走ってみる。で、4周目はダウンしてピットに入ってくる。
4ラップっていっても、トライしてるのは2周目か3周目だけなんやね。そのラップのいいとこ取り。いいとこ取りっていうのは、富士スピードウェイの自分のピットの前から下のヘアピンまで。そこを半分。そこから最終コーナー、ホームストレッチに入ってきて、自分の前を通るのが、あと半分。第1コーナーの2周目、3周目のいいラップと、最終コーナー側の一番いいラップを取ったら、ウチがポールポジションだった。予選の2回目でぶつかったっていうか、いきなり足が折れたから、2回目のタイムトライアルは参加していないも同じ。

WJS いきなりタイムを出したら、かなりまわりが驚いたのではないですか?
小嶋 ポールポジション取ったら、他のチームとか外国のメディアが、「これは、どこかメーカーがやってる」と言い出した。せやから、「ちょっと話聞きたいから」と、急に僕と選手とが富士スピードウェイのミーティングルームで記者会見してくれということになった。
そのとき、「ホンダかどっかのメーカーのひも付きなのか?」と聞かれたから「全然、関係ない」って。「僕はスズキ自動車にはいたし、オートバイのレースでヨーロッパに行ってたやろ」と言ったけど、クルマに関しては「これは、自分ところで京都でこしらえた」って言ったら、皆、びっくりしたわけやね。

※次回は、「F1マシンをいかに造り上げたか」です

日本のモータースポーツの礎を築いた。写真左が小嶋松久氏、右が日本パワーボート協会の理事で、ジェットスキーのレース団体、アクアバイクジャパンの会長である中地淳一氏。


「最新記事」モータースポーツに人生を捧げた男、小嶋松久氏の青春 F1 編「ワールドジェットスポーツマガジン 2022年3月号」
【前回の記事】日本パワーボート協会物語 Ver.4 パワーボートのトレンドを牽引してきた小嶋松久氏

【次回の記事】国産初のF1「KE007」が富士スピードウェイを走った日 コジマエンジニアリング・小嶋松久氏が語る Vol.2

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※「日本パワーボート協会物語」は、現在、下記の第4回まで連載中です

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日本パワーボート協会物語 Ver.2 日本のパワーボートの中枢・小嶋松久会長に聞く「パワーボートの現在」
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※国産初のF1「KE007」が富士スピードウェイを走った日は、現在、下記の第3回まで連載中です
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