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色に感じる大和魂「日本の色」 アメリカツアー参戦「日本人」 紅矢俊栄選手のカラーリング ジェットスキー(水上バイク)

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新型コロナに振り回された、2020年のジェットスポーツ界

新型コロナウイルスの影響で、2020年のジェットスキー(以下、ジェット)の国際レースは、中止や規模縮小が相次いだ。
毎年、10月にアメリカ、アリゾナ州のレイクハバスで、世界選手権大会(ワールドファイナル)が行われているが、1996年の創刊以来、初めて取材に行くことを断念した年となった。結局、今年のワールドファイナルは、世界中のトップライダーが参戦せず、アメリカ人選手だけでひっそりと開催された。

1995年、ワールドファイナルにて。当時、人気の高かったアメリカ人ライダー、クリス “フィッシュ” フィッシェティ選手(Chris Fischetti)。


1980年代、「ジェットの歴史」=「アメリカのジェット界の歴史」だった

ジェットの発祥は、アメリカである。1971年、アメリカ人のジャコブス氏が「エキサイティングで新しいタイプのレクリエーショナル・ウォータークラフトを商品化してほしい」と、KMC(カワサキモータースコーポレーション・アメリカの販売会社)にアプローチしたのが始まりだ。

1982年ごろには、アメリカでジェットの人気が高まり、レースが本格化していた。日本で初めてジェットが発売されたのが1983年だから、ライダー的にもマシン的にも、「アメリカとそれ以外の国」のレベル差は大きく開いていた。
そのころは、アメリカのナショナルツアーの勝者が、自動的に「世界チャンピオン」であった。

1990年、各国の代表選手を送り込んで、世界チャンピオンを決める大会「ワールドファイナル」が、正式に開催されるようになった。
当時は、チームUSカワサキや、USヤマハといったメーカーワークスチームが、タイトル獲得に向けて互いにしのぎを削り合っていた。「スーパースター」と呼ばれた選手は、皆、ファクトリーチームに所属していた。

日本人が初めて世界チャンピオンになったのは、1994年のこと。チームUSカワサキ所属していた金森 稔選手が、ランナバウトの世界チャンピオンに輝き、翌1995年もタイトルを獲得。世界を相手に、2連覇を達成したのだ。

1995年、ワールドファイナルの金森 稔選手。この年、2年連続で世界チャンピオンに輝いた。

ジェットを買ったら、レースに出るのが当たり前だった時代

1980年代後半から、年を追うごとに日本国内でもレース熱が高まっていた。今でも語り草になっているのは、1994年にJJSBA(カワサキが主催するレース)の千里浜大会だ。このとき、1,034名がレースにエントリーしている。
ちなみに、昨年(2019年)の新艇登録台数が約3,000台。当時とは分母が違うが、今の数で言えば、3人に1人がレースをしているということだ。この数が、いかにすごいものか理解できると思う。


実際、一番下のカテゴリーでは、スタンドアップに立って乗って、ブイを曲がれないようなビギナーも数多く参戦していたという。今よりも、レースがユーザーの身近にあったのだ。

そんな時代、本場・アメリカで行われるレースは、非常に遠い、憧れだけの未知の存在であった。そのころは、ワールドファイナルに参加できる選手は、その年の上位何名までと厳格に決まっていた。日本で勝ち抜くのも激戦なのに、日本チャンピオンになってワールドファイナルに参戦するなんて、夢のまた夢だった。
ましてや、「アメリカで通用するか?」と聞かれて、「勝てる」と考える選手はいなかった。


「アメリカで名を挙げる」。フロンティア精神で挑戦した若き日本人ライダーたち

まだ、「アメリカが夢」だったころの2000年。何の後ろ盾も持たないプライベーターとして、日本から全米ツアーに参戦した4人のライダーがいた。海外のトップライダーがしのぎを削る舞台で、どこまで自分たちの力が通用するかを試したかったのだ。

全米ツアーに参戦したのは、今も現役で日本のスキークラスを牽引する、“KING” こと竹野下正治選手をはじめ、星野正明氏、荒木平氏、そして紅矢俊栄氏である。ライダーのスキルも、マシンのレベルも、メーカーファクトリーでなければ通用しないと誰もが思っていた時代に、彼らは世界へと挑戦したのだ。

 

2003年の全米ツアー。紅矢俊栄選手の走りと、紅白のカラーリングも美しいマシン。

「マシンの色」に込められた「大和魂」

ジェットのデザインだけは、自分の手でやりたかった ──紅矢俊栄氏が語る

上写真のマシンの所有者である紅矢俊栄氏は、2003年に世界2位という見事な成績を残している日本のトップライダーである。今見ても、全く古さを感じないこのマシンのカラーリングには、紅矢氏のひとかたならぬ想いが込められているという。当時を振り返りながら、紅矢氏が語ってくれた。

──僕は若いころ(2000年代前半)、アメリカのツアーを転戦していました。
そのころから、広告関係の仕事をしていたので、腕の良いデザイナーの知人はたくさんいました。でも、ジェットのデザインだけは、ロゴのデザインからカラーリングまで、一切合財、全部自分でやりました。

当時、アメリカのプロライダーたちが乗るファクトリーマシンは、どれもゴチャゴチャしたデザインばかり。レースの絶頂期で、たくさんのスポンサーに恵まれて走っていたので、マシンにはスポンサーデカールやステッカーが増えるというわけです。
なかでも人気があったのは、ファクトリーチームの「PJS」や「ブッチーズ」。個人なら「フィッシュ(クリス・フィッシェティ)」のマシンカラーでした。

当然、いろんな色のステッカーが混ざって、複雑なデザインになります。それを、プロのデザイナーが計算し尽くして貼っていたおかげで、雑然とした感じがなく、キッチリとしたレーシーなデザインに仕上がっていましたね。日本でも、多くのジェットスキーヤーが、彼らのカラーリングを真似したものです。

細かくステッカーが貼られたマシンは、近くで見ると素敵ですけど、レース中に遠目で見ると、何色かも、まして、誰なのかも見分けがつかなかった。
そこで私は、「スッキリとしたデザイン」にしようと思いました。

2003年の全米ツアーで、世界で2位になった表彰式。左端が紅矢俊栄選手。アメリカで戦っているときほど「日本人の魂」を意識したという。


全米ツアーでは、“外国人” ライダーほど、自国のカラーリングで戦っていた

そのころ、アメリカで友達になったブラジル人ライダーのマシンは、ブラジルの国旗に使われている色ばかりで塗られていました。グリーンを基調に、イエローとブルーが混ざり合い、彼の母国を愛する気持ちに溢れたものです。
それで私も、レース中に、「ひと目で日本人と分かる」カラーリングにしようと思いました。

使う色は「赤と白とシルバー」の3色のみ。日の丸の「赤と白」をベースにデザインしました。パソコンなんてない時代。全部、紙の上に手書きでデザインを描き、それをトレースして、ステッカーの型を起こします。
面倒だなんて思ったことは、一度もありません。自分のマシンをどういうデザインにしようか、時間があれば、ずっとそのことばかり考え続けていました。

アメリカを一緒に転戦した仲間たち、ゴンちゃん(星野正明氏)や竹ちゃん(竹野下正治選手)も、皆、同じカラーリングにしていました。不思議なもので、海外にいるときほど「日本の魂」を意識するのです。

それから現在に至るまで、私のマシンは、ずっと「赤と白」のカラーリング。でもこれは、あくまでレース艇に限ったこと。市販艇なら、純正カラーのままです。カッコいいし、何の不都合もありませんからね。
だけど、レース艇は別です。もし、今でもレースに復帰するなら、この「赤と白」のオリジナルカラーで走ります。それだけ、この「赤と白」のカラーには強い思いがあるのです。



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