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”チョット立ち読み”!ワールドジェットスポーツマガジン「3月号」 只今、まるごと1冊”無料公開中”! ジェットスキー(水上バイク)

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ワールドジェットスポーツマガジン「2022年3月号」

最新号の目次&内容を紹介します

特集1 Introduction F1 True Stories
―「コジマエンジニアリング」とは何か

特集2 Special Interview Mr.Matsuhisa Kojima 
―国産F1で初めて富士を走ったコジマの真実―

特集3 2022 NEW HELMET DESIGN
―ナガイデザインの新作ヘルメット・解禁―

特集4 PWC New Model BRP & Kawasaki
―BRP & Kawasaki 国内ニューモデル2022―




最新号の中身を紹介します!

特集1 Introduction F1 True Stories
―「コジマエンジニアリング」とは何か―
日本で初めて開催されたF1の挑戦1年目、コジマエンジニアリングの「KE007」は予選で最高のラップタイムを叩き出した。「写真右前・小嶋松久氏」「写真中央・長谷見昌弘選手」


「コジマエンジニアリング」とは何か

今回は「ワールドジェットスポーツマガジン1月号」で掲載したコジマエンジニアリング代表「小嶋松久氏」の続編である。

「コジマレーシング(KE)」。スーパーカーブームを肌で知っている世代にとっては、憧れの名前である。1976年の富士スピードウェイで、日本で初めて国産のF1マシンを走らせた。そのファクトリーを率いていたのが、当時、32歳の小嶋松久氏である。

小嶋氏は、長くスズキのオートバイのファクトリーライダーとして活躍。スズキ初のモトクロス世界選手権タイトル獲得に多大な貢献をしたレーサー。26歳のときに地元の京都に戻り、コジマエンジニアリングを設立した。

コジマエンジニアリング設立から5年後の1975年(昭和50年)、「'75日本グランプリレース」で、コジマエンジニアリングからエントリーしたフォーミュラーマシンが全クラスで優勝した。事実上の国内完全制覇である。 日本の最高峰のレースで3年連続チャンピオンを獲得していた。

この翌年から、F1が開催されることになり、プライベートチームでありながら、日本代表というプライドを抱いての挑戦となった。 小嶋氏にとってF1に参戦することは、それまでやってきたことの延長線上であり、偶然でもあり、必然的な流れでもあったのだ。


小嶋松久氏のレース哲学

F1参戦1年目の「奇跡の大修理」や、2年目の「BSタイヤ問題」など、多くの人がそれぞれの見解を語っている。

しかしそれは、あくまで「まわりから見ている人」からの意見であり、「一番の当事者」である小嶋氏が語ることはあまりなかった。あっても、ほんの断片的にしか伝わってこない。

昔から一貫して変わらないのは、「勝てないと思うならレースに参戦するべきではない」である。もし今年勝てないなら、勝てる態勢になるまで体制やマシンを作り込み、「勝てる確信」が出来た状態で臨むべきだというのが小嶋氏の持論である。




「写真右・小嶋松久氏」、「写真左・長谷見昌弘選手」は、小嶋氏より1つ年下の1945年生まれで、同じモトクロスバイクのレーサーとして15歳でデビューした。1964年に4輪に転向した日本のレーサーのレジェンドである。モトクロスレースは、小嶋氏のほうが先にデビューし、スズキのエースライダーとして実績を残している。




特集2 Special Interview Mr.Matsuhisa Kojima 
―国産F1で初めて富士を走ったコジマの真実―F1マシンの開発コンセプトは、「富士スピードウェイ“だけ”で通用するクルマ」を作る。ドライバーはもちろん、チーム員全員が富士スピードウェイを知り尽くしていた。日本で初めてF1の開催が決まった当時、3年連続フォーミュラ―日本チャンピオンのコジマレーシングの勝利に期待が集まった。


F1 物語 Formula 1 JAPAN GRAND PRIX

小嶋松久氏独占インタビュー・モータースポーツに人生を懸けた男
第2回 45年目の真実・誰も知らない「コジマの見たF1」

今月号で掲載するのは、「F1時代」の話だ。日本で初めてプライベートチームでF1を走ったコジマエンジニアリングの代表が、「あの時代に、本当は何を考えて、何をしてきたのか」というテーマだ。


「コジマ」と「マキ」。何かと比較される2つのチーム

本格的にF1参戦の話を訊く前に、ぜひとも小嶋氏に聞いておきたいことがあった。それは、「マキ」というチームについてである。
古くからのモーターサイクルファンから、「日本で最初にプライベーターとしてF1に参戦したのは『マキ』ではないか?」と言われることがよくあるからだ。

確かに1974年にヨーロッパでF1グランプリにチャレンジしている。「コジマ」と「マキ」で比較されることも多い。実際に、同じ時代を生きてきた小嶋氏に「マキ」というチームについて、ぜひとも聞いてみたかった。

僕らから言わせたら、「日本のレースで勝ってから、海外へ行けよ、格好の悪い」と思っていた。僕はオートバイでも世界戦に行って嫌な思いもしたし、恥もかいた。

当時、すぐにヨーロッパに行かないで、日本で1年間、勝てるマシンを開発してから行くべきやった。それができへんやつがこしらえて、ろくに走りもせんのにヨーロッパに持って行った、ルマンに持って行った。24時間のレースで前半につぶれている。そういうのは、持って行く必要がない。日本のレースに勝ってから行けよ。あの当時、耐久レースは日本にあったんやからね。

それが僕の基本的な考え。気持ちのいいほどスッパリと、小嶋氏はそう言いきった。これは「マキ」についてというより、レース参戦に対する小嶋氏の嘘偽りのない信念・信条なのである。

ウチのF1(KE007とKE009)を設計した小野昌朗っていうのは、もともと「マキ」におったんよ。もちろんまだ日本ではF1のレースはなかったけど、小野たちは形ができたから」って、喜んでヨーロッパ(イギリス)に行った。


F1マシンを作るなら、海外の方が安かった。しかし、勝てない!

あの時分っていうのは、日本でF1をこしらえようとしたら、お金と時間が倍かかったけど、イギリスはF1の8割がロンドンの周辺中心にコンストラクターがおって、チームがあった。せやから、そこらの加工屋さんへ「F1のどの部品ですけども、こんなんこしらえたいんや」って図面と一緒に持って行ったら、「ああ、この材料でこうしたらできるよ」って言って作ってくれる。我々は日本で材料まで指定するか、危なかったら2つか3つくらいの材料で加工してもらって、そのなかで「どれが持つやろうか?」というようなことでやっていかないと判断ができへんかった。

せやけどイギリスは何十年もF1をやってるところが多かったから、「この部品は、この材料でこうしないとダメだよ」と、加工屋さんが教えてくれる。イギリスでこしらえると、案外、安くて早かった。

そういうことでマキがイギリスにベースキャンプを置いたのかどうか、僕は知らんけども、初めは張り切って4人か5人くらいで「ヨーロッパでレースやる」って行ったわけやね。


「マキ」にいたマシン設計士・小野昌朗氏との出会い

マキは1回か2回はスタートラインに並んだらしいけど、結局、1回もまともに走らんと、そのまま小野だけが可哀想に残って留守番していた。気が付いたら、ガレージは借りてる、みんな逃げて帰ってしまって誰もおらんようになった。

僕が、「F1こしらえたいけども、いろんな向こうのクルマや部品を見に、ヨーロッパ行くんや」って言ったら、富士スピードウェイの近所にあった近藤レーシングガレージっていうショップの友達に、「小野っていうのがロンドンにおるから、連絡しておくから行ってやってくれよ」と言われた。

それでヨーロッパにちょこっと行って顔を見たら、「もう、お先真っ暗で何も進んでへんし、ガレージ代も払ってない。これから、どうしようかと思ってるんや」って小野が言うから、「だったらウチでF1やるから帰ってこい」ということで帰って来させたわけやね。

当初は日本人がマシン設計や開発したが実践では全く通用せず、ヨーロッパでパーツを調達して何とか走らせていたという。その後マキは、メインスポンサーのマルチ商法が社会問題化し、資金不足に陥ってフル参戦が不可能になったという経緯もある。

せやのに、「マキが最初に走らせたとか、走らさへん」とか、僕から言わせたら「何言うてるのか」と。


「参加するチーム」と「勝つためのチーム」では、何もかも”全く”違う

ウチはちゃんと日本グランプリで、曲がりなりにも完走した。予選ではある程度いいとこどりをして、1000点や2000点もの部品が五体満足に動いて、初めて完走して。

僕は、我々がこしらえてF1で“勝てる可能性”っていうのを持っていた。「そんなこと言うて厚かましいやないか」と「何考えとんねん」という奴もおるかも分らん。

しかし、長谷見も僕もこしらえてた連中も、結果論として、前のアッパーだけ頑丈で折れなかったら、十分に表彰台、1位~3位くらいまでは入れてるやろうなと。僕は今でも自信を持って言えるし、現実にアッパー部以外は、ほとんどいい状態で仕上がっていたしね。

ちなみにF1では、参戦(エントリー)しても、予選を通過しても決勝に出場しなければ「出走扱い」にならない。記録上、決勝に出なければ「F1デビューしていない」ことになるのだ。小嶋氏が言うとおり、「完走しないことには意味がない」。そうでなければ、何もしていないことと同じなのである。

マキは、F1の形が出来たからと本場のF1に挑戦しに行った。コジマは、当時の3年連続F2000の日本チャンピオン。日本で初めてF1が開催されることになり、地の利を生かして、マシン的にもチーム的にも本気で世界チャンピオンを獲得しようとした。「参加するチーム」と「勝つためのチーム」は全く違うのだ。


26歳でコジマエンジニアリングを設立・小嶋松久氏の歴史

1970年(昭和45年)、小嶋松久氏は、かねてからの父親との約束通り京都に戻り、26歳でコジマエンジニアリングを設立した。当初は、スズキのオートバイの市販レーサーを開発・販売するのがメインの仕事だった。

スズキの市販のオートバイを、自身がレースで戦っていたレースマシンのように改良するのだ。本物が欲しいというユーザーの希望は多かったのだ。この時代に「メーカー・ワークス・バージョン」のオートバイを販売していたのである。メーカーのレースカスタムの最初である。数年後、メーカー(スズキ)がRモデルを販売するようになる。


バイクのスペシャリストがクルマに移行した理由

その頃スズキに頼まれて、四輪の、スズキ・フロンテのエンジンに組み込むレース用のキットを発売していた。最初の頃は、エンジンを販売したカスタマーへのアフターケアの意味もあり、よくサーキットに行っていた。

そこから、もっと「勝てるクルマ」を作るため、レースに参戦し始めたという。フォーミュラに参戦し始めた経緯を訊くと、「なるべくしてそうなった」ということを強く感じた。

小嶋氏が言う。当初、スズキがエンジンに組み込むキットを出したんです。ミッション、クランクシャフト、点火系統、シリンダー、シリンダーヘッド、そういうのをキットでスズキが売りたいという。それで、「西日本は小嶋のところでやってくれ」と頼まれた。

できたエンジンを、「ボディをこしらえる会社」に売っていたんやけど、ちゃんと走れるように、スズキ本社の連中と我々が合体チームで、サーキットでいろんなサポートをやってあげた。

4輪の世界っていうのは4サイクルのドでかい、踏んだら走るっていうやつが多かったから、僕らの売っていたような、2サイクルの軽量・高性能エンジンは全然経験がない。

せやから、半クラッチの使い方とか、回転をどうやって上げていくかとか、どういうふうに乗ってほしいとか、そういうのから指導していかないと、オートバイみたいな2サイクルの小さい自動車は走らへんかった。


レース・エンジンを売る以上、勝てる車をつくる

そのうち、「エンジンを売る以上、勝てるような車体をこしらえてあげないかん」と、自らフォーミュラカーの製作に携わるようになる。

エンジンを売る以上、勝てるような車体をこしらえてあげないかん。フォーミュラの一番小さなクラスであるFL500に勝ちたければ、もうちょっと上のクラス(FJ1300)で勉強して、強度の問題とかをフィードバックしていかないかん。それで自らのチームでレースに参戦するようになった。


F1開催の前年、1975年の国内レース、全クラスですべて1位を独占

会社設立から5年後の1975年(昭和50年)、「'75日本グランプリレース」で、コジマエンジニアリングからエントリーしたフォーミュラーマシンが全クラスで優勝した。事実上の国内完全制覇である。

ドライバーは、FL500クラスは山本高士選手、FJ1300とF2000は長谷見昌弘選手であった。2年目くらいにFJ1300やって。FJ1300も、8割くらい勝てた。それならフォーミュラ2(F2000)もやりたいなっていうことで、一年おきくらいにひとつずつランクアップしていってね。

それで1975年にフォーミュラの550、フォーミュラの1300、それからフォーミュラ2、2リッターのJAFの日本グランプリの予選と決勝、3クラス全てパーフェクトで勝った。


「コジマエンジニアリング」F1にチャレンジ

その翌年、1976年(昭和51年)に日本でのF1開催をJAFが公式発表した。「F1を富士スピードウェイで、3年間やります」って発表したから、「3年やるんだったら、F1をこしらえようか」ということで、今度はF1をこしらえだしたんです。

日本にヨーロッパで走ってる本物のフォーミュラカーが走ること自体、初めてのことだった。1960年代からホンダがヨーロッパでは勝っていたが、F1のレース自体が日本に来るのは初となる。ましてや小嶋氏は、自動車メーカーではない、「一介のプライベーター」がF1に参戦することを決めたのだ。

しかし話を訊くと、小嶋氏にとってF1に参戦することは、それまでやってきたことの延長線上であり、偶然でもあり、必然的な流れでもあったのだ。


絶対的なエースドライバー片山義美選手

この当時、コジマエンジニアリングのメインドライバーは片山義美選手であったが、フォーミュラ2のとき片山選手はマツダ系のドライバーとして、フランスでのレースに参戦していた。

片山をずっと乗せてたんだけど、マツダのライダーでもある。マツダが、ロータリーをヨーロッパの耐久レースにもっていたんですよ。片山はうちのフォーミュラにも乗ってくれていたけど、マツダの人も理解があって、「FL550はフォーミュラだし、スズキの軽四とは違うからええやろう」ということで片山をずっと借りてたんですね。

ウチはずっと片山やから、ずっと勝ってた。マツダでヨーロッパに遠征に行ってたときには片山の弟の従野っていうのが臨時で乗ったり、山本に「お前乗れ」ということで乗らせたりとかしてた。

1975年のときは、たまたま京都の山本君が勝ってくれたんやね。



左のマシンがF1参戦1年目、長谷見選手が乗った「KE007」、右側がF1参戦2年目、星野選手が乗った「KE009」。


この記事以外に「ワールドジェットスポーツマガジン3月号」に掲載した内容

「なぜ、長谷見昌弘選手をF1ドライバーとして迎えたのか?」、

「最良のマシン設計は、紙の上ではなく「現場」にある」、

「富士スピードウェイだけで勝てるマシン?を作った」、

「タイヤについて」、

「予選でクラッシュし、一晩で修理をした「奇跡の大修理」の顛末」、

「最高のラップタイムを叩き出した理由」、

「軽いから潰れた」と言われたくはなかった、

「KE007」は、設計者の「夢」が組み込まれていた、

「F1の挑戦、2年目、なぜドライバーを長谷見選手ではなく、星野一義選手と高原敬武選手に交代したのか?」

「2年目の敗因・タイヤを「ブリヂストン」に替えた理由」

「日本のトップドライバー・小嶋氏はどのように評価していたのか」


コジマエンジニアリングのマシンに乗った超一流レーサー達

コジマエンジニアリングが、F1に参戦したのは2回だが、それ以前からフォーミュラレースに出場し、勝利を挙げている。マシンの完成度の高さはもちろんだが、それを走らせるドライバーも一流だった。

長谷見昌弘選手、星野一義選手、高橋国光選手、片山義美選手など、KEのトライバーには錚々たるメンバーが並ぶ。

コジマエンジニアリングで活躍したドライバーの一部ではあるが、彼らをどのように見ていたのか小嶋氏に聞いてみた。

紙面の中で正直に答えてくれた。このメンバーに対して、こういう風に評価をし、それを口に出せる人物は小嶋氏の他にはいないと思う。


特集3 2022 NEW HELMET DESIGN
―ナガイデザインの新作ヘルメット・解禁―
我が業界のヘルメットペイントの第1人者。長井崇氏の還暦前の「最後の作品」である。

Nagai Designs Helmet

業界を代表するヘルメットペイントの第一人者、Nagai Designs代表、長井 崇氏より、「渾身のヘルメットが出来た」と連絡があった。

「同じデザインは2度と使わない」と公言する長井氏は、常に新しいヘルメットペイントを模索し、進化を続けている。 彼の新作ヘルメットは、17世紀後半、フランスで活躍した巨匠「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」が描いた「灯火の前のマクダラのマリア」をモチーフとしている。

このヘルメットのコンセプトは、「誰も使わない配色」である。詳細な内容は「ワールドジェットスポーツマガジン3月号」でお楽しみ下さい。


特集4 PWC New Model BRP & Kawasaki
―BRP & Kawasaki 国内ニューモデル2022―
気になるヤマハのラインナップは来月号にて公開いたします。




チョット立ち読み! ワールドジェットスポーツマガジン「2022年3月号」 、まるごと1冊・無料公開中です

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