カテゴリ
タグ
  1. TOP
  2. RACE
  3. 「汚れた英雄」のモデルにもなった “伝説のRacingチーム”を知っていますか? “最速の男”たち、 “本物の男”とは、何と“謙虚な人々”なのか「素晴らしき人間性」に恐れおののく、日本、レース界のレジェンドが一堂に会す!

「汚れた英雄」のモデルにもなった “伝説のRacingチーム”を知っていますか? “最速の男”たち、 “本物の男”とは、何と“謙虚な人々”なのか「素晴らしき人間性」に恐れおののく、日本、レース界のレジェンドが一堂に会す!

  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

戦士たちの友情「昭和2&4会」開催!

  日本のモータースポーツは2輪から始まった!若き日、レース界で「我らのアイドル」と言われた小嶋 松久氏.。

-“日本のモータースポーツの顔”が勢揃い!

日本のモータースポーツの礎を作った偉大なレーサーたち。「昭和2 & 4会」に集まった皆さま。各メーカのアイコン的存在。

このメンバーを知らなければ、日本のモータースポーツを語れない

「第1回全日本モトクロス」、「第1回全日本ロードレース」、「F1世界選手権イン・ジャパン」日本のモータースポーツは“彼ら”から始まった。モータースポーツが身近にあった時代

1955年(昭和30年)から、日本のモータースポーツの最前線を走り続けてきた2輪・4輪の「レジェンドレーサー」たちが集まる「昭和2 & 4会」が、11月8日に催された。

このメンバーで集まるのは「最初で最後になるかもしれない」という、“プライベートな集い”である。

モトクロス黎明期より活躍された選手を中心に、大勢の往年のライダーが集まった。

現役時代は「口もきかなかった」というほどライバル視していたという。幹事の皆さま。
写真左は吉村 太一氏、彼の名前を知らない世代でもライディングギアブランドの「RSタイチ」は知っているはずだ。
写真右端は、“日本一速い男”と言われた星野一義氏だ。
2人以外の人もネットに名前を打ち込むだけで整理できないくらいの偉業が“これでもか”と言う程、掲載されている。


日本人が誇れる「本物の男たち」21名が集まる。

歴代の日本チャンピオンや、世界チャンピオンを獲得した猛者たちばかりで、それぞれ、「スズキ、ヤマハ、ニッサン、トヨタ、ホンダ、カワサキ」という、日本を代表するモーターサイクル・カンパニーの“顔”ともいえる存在ばかりである。

彼らは昔からライバル意識が強く、メーカー主催のイベント以外で「同じ卓を囲む」ような間柄ではなかった。

それが数十年の歳月とコロナ禍を経て「もういいだろう。今、集まらなければ、2度と会えないかもしれない」と、今回の開催となった。



城北ライダースの設立メンバーである故・鈴木誠一氏の写真を手にする神谷 章平氏。


会の中心メンバーは「城北ライダース」。かつてのライバルも一堂に会した

会場になったのは、東京都世田谷区にある「グリル C」というレストラン。

この店のオーナーは、かつて名門「城北ライダース」で彼らと戦っていた神谷 章平氏である。レーサーを引退した後も、蔭で彼らを支えてきた日本のモータースポーツの功労者である。

「みんな年を取ってきた。なかなかこういった機会がないので、ぜひ協力したい」と、この日のために店を貸し切りにしてくれたのだ。

幹事は日本のレース初期に大活躍をした“城北ライダース”の中心メンバーだった菅家安智氏をまとめ役に、鈴木忠男氏、吉村太一氏、星野一義氏の4名。

「城北ライダース」は、1950年代半ばに故・鈴木誠一氏、久保3兄弟の靖夫氏、寿夫氏、和夫氏らが集まって結成された。日本のモータースポーツ黎明期に発足したレーシングチームであり、現在も活動する最も歴史あるクラブである。

この「城北ライダース」が大藪春彦氏の小説「汚れた英雄」のモデルになったチームとも言われている名門チームだ。

鈴木氏の思い出を語る星野一義氏。


城北ライダースの結成メンバーである故・鈴木誠一氏の写真と共に

当初、23名出席の予定だったが、体調不良や身内のご不幸などがあり、今回出席したのは21名。

モトクロス黎明期より活躍された選手を中心に、大勢の往年のライダーが集まった。

会場内にはレース中に亡くなった、城北ライダースの結成メンバーである故・鈴木誠一氏の写真も飾られ、皆、懐かしそうに「誠さん」と呼んで、当時の話に花を咲かせた。

昨日のことのように想い出を語ってくれたのは、日本で初めて国産のF1マシンを走らせた小嶋松久氏。


往年のモータースポーツファンなら、誰でも知っているレジェンドが次々と挨拶に立った

会の終盤でマイクを受け取った参加者が挨拶を行った。

スズキのワークライダーとしてモトクロスレースで活躍し、1976年に日本で初めて行われたF1で、国産F1マシンを走らせた男・小嶋松久氏は「自分が19歳のとき、レース中の事故で右足を複雑骨折しました。

生涯、車椅子生活と医者から宣言され、1年間、静岡の病院に入院していたとき、“城北ライダース”のメンバーがお見舞いに来てくれて、時々、病院から連れ出してくれた。

開発中のレーシングマシンを見せてくれて、ああだ、こうだと、皆で話したことは60年近く経った今でも忘れない」とつい最近の出来事であるかように話をした。

小嶋氏は現在78歳。今から59年前の青春の日の光景を脳裏に浮かべながら、目の前の“城北ライダース”のメンバーに話しかけているのが印象的であった。

北野元氏は、「俺は挨拶が嫌なんだよ。だって自慢に聞こえちゃうから」と笑いながらマイクを受け取ると、まわりのメンバーから「浅間山の美少年!」と声がかかる。 終始、笑い声と“鋭いツッコミ”で盛り上がったのだった。

若き天才ライダーと呼ばれた北野 元氏。


“日本一速い男”と言われた星野一義氏

菅家氏は、「昔から“日本一速い男”と言われた星野一義氏が、“城北ライダース”に憧れたと話してくれるので、毎年忘年会に呼んでいます」とマイクを星野氏に向ける。

星野氏は、「毎年、命があって良かった。生きていて良かった」と言い、「ここにくるまでに、数多くのレーサーがレース中に命を落としています。レースの発展と繁栄は、彼らの犠牲があってこそ。決して忘れてはいけません」と語ってくれた。

レーシングマシンもそうだが、昔はサーキットの安全性も低かった。レーサーが命がけで戦ってきたことを強く感じる言葉であった。

「このまま勉強なんてしていたら、一生この人たちには追い付けないと思って、学生をやめてモータースポーツの世界に飛び込んだ」と語る星野氏。


この人たちが、星野一義氏がレーサーになった理由

星野氏は、「学生時代にレースに憧れ、モトクロスのレースに参戦した。 ここにいらっしゃる先輩方が、あまりに速くて背中が遠かった」

「このまま勉強なんてしていたら、一生この人たちには追い付けないと思って、学生をやめてモータースポーツの世界に飛び込んだ。

親やまわりの大人たちからは、“勉強をやめるな”など、いろいろ言われましたが、モータースポーツのお陰でこれまで生きて来られたし、今は会社まで持たせてもらっています。本当に感謝しています」と、しみじみ語ってくれた。

この日の2日前、星野氏率いるカルソニックインパルが、SUPER GTのGT500クラスで27年ぶりのチャンピオンを獲得した。


日本人が誇れる「本物の男たち」の集まり

挨拶をされた菅谷氏や小嶋氏、北野氏、星野氏、ここに集まった全てのレジェンドの皆さんたちは、「日本を代表するレーサー」という肩書を超えた「人格者の集まり」だと感じた。

現役レーサー時代には、互いに口もきかなかったというほどライバル視していた同士が、こうやって集合すること自体が奇跡である。

日本人が誇れる「本物の男たち」の集まりだった。

この日、私事で参加できなかった「昭和2 & 3会」のメンバー(長谷見昌弘氏、河崎裕之氏、平 忠彦氏)もいらっしゃったので、次回会えるのを楽しみに解散となった。

以下に、簡単ではあるが今回の参加者の彼らの偉大な足跡を記してみたいと思う。

もちろん、皆さん、ここには書ききれないくらいの功績を挙げられている方々ばかりだ。

抜けているものも多いがそこはご容赦いただきたい。(記載は年齢順)。


宇野順一郎氏(1935年10月19日生まれ、現在87歳)

1958年(昭和33年)、浅間高原自動車テストコースで開催された第1回全日本クラブマンレースに、自ら改造したホンダ・ドリームSAで出場。ライトウェイト(250cc以下)クラスで7位を獲得。

1961年(昭和36年)、埼玉県の米軍ジョンソン基地で開催された第4回全日本クラブマンレースにホンダCR71で出場し、クラブマン250ccクラスで2位。

併催された日本選手権にホンダCR71で出場し優勝。この活躍により、ヤマハの契約ライダーになる。

1962年(昭和37年)、三重県の鈴鹿サーキットで開催された第1回全日本選手権レースに出場。以後、ヤマハワークスライダーとして、国内レースやモトクロスで活躍。


久保 和夫氏(1939年5月6日生まれ、現在83歳)

「城北ライダース」結成メンバーの一人。

スズキファクトリライダーとして、1964年の第1回モトクロス日本GPで125/250ccクラスのダブルタイトルを獲得。

1965年(昭和40年)に、日本人として初めてモトクロス世界選手権に出場。

1960年代、国内モトクロス無敵を誇るライダーであり、第1回全日本クラブマンモトクロス250ccクラスで優勝。

富士で開催されたイベントでは50cc、125c、250cc、オープンクラスのすべてに出場して優勝という離れ業を演じたこともある。

その後、チューナーとしても活動の場を広げ「チームSRSクボ」を率いて、多くのライダーを育成するなど競技の普及振興に寄与した。

2021年(令和3年)度「MFJモーターサイクルスポーツ殿堂」入り。

スズキレーシングサービス久保代表


本橋 明泰氏(1939年10月30日生まれ、現在83歳)

21歳でアマチュアレースを始めた。

1962年(昭和37年)にヤマハと契約。同年秋の第1回全日本選手権ロードレースでノービス250cc予選1位を獲得し、頭角を現す。

1964年(昭和39年)からはシンガポールGPやマレーシアGPなど、アジアの国際レースで数多くの勝利を獲得。

世界GPでも屈指の歴史と伝統を誇る「マン島TT」、「ダッチTT」や、日本GPにスポット参戦。3つの表彰台('66年日本125cc3位/'67年マン島125cc3位・日本250cc2位)を獲得した。

1966年(昭和41年)日本125cc3位、1967年(昭和42年)マン島125cc3位、日本250cc2位と、GPレースで3つの表彰台を獲得した。

1977年(昭和52年)に引退するまで、ファクトリーマシン開発ライダーを務める傍ら、国内やアジアのビッグレースで活躍。

金谷秀夫、高井幾次郎、平忠彦ら後進の育成にも力を注いだ。


黒沢 元治氏(1940年8月6日生まれ、現在82歳)

ホンダ系チームで2輪ライダーとして活動。

1962年(昭和37年)に鈴鹿サーキットで初開催された、第1回全日本選手権ロードレースの50ccクラスで優勝。

1965年(昭和40年)に日産の大森ワークスチームに加入。鈴木誠一の同僚になったのを期に「城北ライダース」のチーム員となり、2輪と4輪を掛け持ちしていた。

1969年(昭和44年)の日本グランプリに日産・R382で優勝。故・高橋国光氏と北野元氏とともに「追浜ワークス三羽ガラス」などと称され、日本を代表するレーシングドライバーとなった。


北野 元氏(1941年1月1日生まれ、現在81歳)

1959年(昭和34年)4月、「第1回全日本モトクロス大会」でのデビューレースで、ホンダ・ドリームMF350ccに乗り、オープンクラス優勝。

同年8月の第3回浅間火山レースでは、125cc、250cc、耐久ウルトラL125ccと3部門で優勝した。

これらの活躍で一躍注目の的となり、高橋国光氏や伊藤史朗氏と並び、若き天才ライダーと呼ばれた。

1960年(昭和35年)にホンダワークスに加入。19歳で世界最高峰の難レースと言われた「マン島TTレース」に出場。ホンダ・RC161で5位となった。これを皮切りに、世界グランプリレースに出場し活躍する。

1961年(昭和36年)、デイトナスピードウィーク・US(アメリカ)GP・250ccクラスで優勝。世界GP戦ではないものの、これは日本の選手および自動車(2輪4輪)メーカーにとって、海外ビッグレース初優勝だった。

1965年(昭和40年)、ホンダ2輪チームの先輩である田中健二郎に誘われる形で、ホンダから日産の追浜ワークスに移籍。以降は4輪ドライバーとして活躍する。

1967年(昭和42年)1月の全日本自動車クラブ対抗レース大会で優勝、同年3月の第2回ダイヤモンドトロフィーレース大会で優勝。

1968年(昭和43年)の「日本グランプリ」において、日産・R381で総合優勝を果たし、名実ともに一流ドライバーの仲間入りをする。

1971年(昭和46年)の全日本ドライバー選手権で土付かずの年間チャンピオンを獲得。高橋国光氏、黒澤元治氏と共に日産自動車追浜ワークスの三羽ガラスと呼ばれていた。 ウルフ・モト代表。


菅家 安智氏(1944年6月2日生まれ、現在78歳)

軽量クラスのモトクロスバイクから、4輪のレーシングカートに転向。

レーシングカートの世界選手権で、若き日のアイルトン・セナを破り、ポールポジションを奪った。「アイルトン・セナに勝った男」である。

当初はプライベーターでモトクロスに参戦していたが、コースで「城北ライダース」の面々と顔を合わせているうちに、矢島金次郎氏の誘いで同チームに加入。

1965年(昭和40年)、第2回日本GPの90ccクラスでチャンピオンになるなど、軽量クラスのモトクロスで活躍。

レース中の事故でのケガもあって6年でレーサーはやめ、スズキの依頼で自分のモトクロスチームを立ち上げた。それが“SRSスガヤ”である。「SRS」は、スズキ・レーシング・サービスの略。

SRSスガヤは、その後カートフレームの開発・製作に進出する。菅谷氏自身もカートレーサーとして全日本カート選手権に出場。4度のシリーズチャンピオンを獲得した。

世界選手権にも参戦し、1979年ポルトガルのグランプリレースで日本人初のポールポジション獲得と5位入賞を果たす。

1982年(昭和年)には、故・アイルトン・セナ氏とチームを組み、世界選手権に出場。「レースでセナに勝ったただ一人の日本人ドライバー」となった。

1983年(昭和年)から3年契約で無限カートエンジン開発に携わり、1985年(昭和年)には「無限カート」にて全日本カート選手権チャンピオンとなった。 エス・アール・エス スガヤ代表。


小嶋 松久氏(1944年11月7日生まれ、現在78歳)

日本で初めて開催されたF1レースで、国産マシン「KE007」で参戦。予選タイムアタックでポールポジションほぼ確実という快走をみせた「コジマエンジニアリング」の代表。

1959年、15歳のときに京都で行われたダートトラックレースがデビュー戦。

1960年、16歳でスズキのファクトリーライダーとして、国内のモトクロスレースに出場。

1964年、日本で初めてのモトクロスレース「MFJ 第1回モトクロス日本グランプリ」に出場し、50ccクラスで優勝。

1966年、「第3回モトクロス日本グランプリ」で90ccと250ccクラスでダブル優勝。同年、ヨーロッパの「モトクロス世界選手権」250ccクラスに出場。

1970年、コジマエンジニアリングを設立。本格的に4輪レースへと移行していった。

1975年、「’75 日本グランプリレース」で、コジマエンジニアリングがフォーミュラー全クラス優勝。

1976年、日本で初開催された「F1」にプライベーターチームとして参戦。国産F1レースマシン「KE007」で出場し、予選タイムアタックでポールポジションほぼ確実という快走を見せるも、サスペンション故障でクラッシュ。11位完走。

1977年、「KE009」で、2度目のF1挑戦。この大会で死亡事故が起こったため、翌年の日本でのF1開催が中止となったため、F1から撤退。

1987年から、パワーボート競技に転向し、国内レース4連覇などの偉業をなしとげる。現在は、日本パワーボート協会会長を務める。


鈴木 忠男氏(1945年2月19日生まれ、現在77歳)

1961年、全日本モトクロス選手権セニア250cc チャンピオン。

1965年、ヤマハワークスライダーとなる。

YDSベースのモトクロッサーで各地のレースに参戦。葉山のレースでは90cc・125cc・250cc・オープンクラスと、4クラス制覇を成し遂げる。同年、MFJ全日本ロードレース(鈴鹿)50ccクラス優勝。

1969年、全日本モトクロス・セニア250ccチャンピオン。

この年初めて全戦に出場し全日本モトクロス選手権250ccクラス年間チャンピオン(125ccクラスでもランキング2位)、日本モーターサイクルスポーツ協会の最優秀選手にも選ばれた。

1976年、オートバイオリジナルパーツショップ「SP忠男」を開店。レーシングチームSP忠男レーシングの監督としてチーム運営にも関わり、ロードレースの全日本チャンピオン・世界グランプリライダーを多く輩出している。


清原 明彦氏(1946年2月26日生まれ、現在76歳)

1977年、カワサキのテストライダーを兼任しながらワークスライダーとしても契約。

同年の世界GPドイツ大会では初参加のKR250でポールポジションを獲得。決勝は2位。

「ミスターカワサキ」と呼ばれ、数々の伝説を作った。テストライダーとしてマシンの弱点を見極め、さらに方向性を定めて技術部門に伝える。その精度が極めて高かった。そのおかげで、カワサキの名車「Z1」を生み出した。

現在は神戸でバイクショップ「プロショップキヨ」を経営。


吉村 太一氏(1946年11月16日生まれ、現在76歳)

1960年代~70年代前半に、スズキ、ホンダの両メーカーワークスから全日本選手権や世界GPに参戦し、数々の勝利を挙げた。

学生時代から数多くのオフロードレースに参戦してきた実績を認められ、1966年、スズキとライダー契約。

1967年にモトクロス全日本選手権セニア125ccクラス優勝。

1970年のモトクロス全日本選手権ではセニア125ccと250ccの両クラスにおいてシリーズチャンピオンに輝く。

1971年、ヨーロッパへ遠征し、日本代表選手としてワールドモトクロスGPに参戦。

1972年、ホンダへ移籍。ホンダにモトクロス初の勝利をもたらした。

1975年にオフロードライダー選手引退。その直後、「アールエスタイチ」を設立。

2001年、2002年、スズキワークスの監督を務める。

現在はMFJレジェンドライダースクラブ・副会長。「アールエスタイチ」代表。


星野 一義氏(1947年7月1日生まれ、現在75歳)

現役時代は「日本一速い男」と呼ばれ、数々の偉業を成し遂げた。

1962年、15歳でモトクロスデビュー。

1964年、カワサキオートバイチームと契約。17歳でプロライダーとなる。

1968年、全日本モトクロス選手権の90cc・125cc両クラスでチャンピオンを獲得。

1969年、日産自動車四輪ドライバーとして契約し、四輪レースデビュー。

1971年、日産チェリーで、軽量クラスに君臨。

1973年、“チェリーの星野”と注目される。

1974年、鈴鹿フォーミュラレースで、初めて“風の当たるマシン”に乗り、マーチ733でポールポジションからぶっちぎりの優勝。

1975年、F2、GC(グランドチャンピオン)レースにフルエントリーし、トップドライバーの仲間入り。この年のF2チャンピオンに輝く。

1976~1979年、全日本F2選手権から全日本F3000選手権や富士GCシリーズ、全日本FP選手権、全日本耐久選手権、全日本ツーリングカー選手権 (JTC) でチャンピオンの常連となり、レースファンやメディアから「日本一速い男」と呼ばれるようになる

1976年、10月に富士スピードウェイで行われたF1世界選手権イン・ジャパンに、ヒーローズからスポット参戦。

1977年、F1日本GPにコジマエンジニアリング「KE009」にて参戦、11位完走を果たす。

1980年、ホシノ・インパルを設立。

1981年、2年連続、FP(フォーミュラーパシフィック)シリーズチャンピオン。

1982年、GC2度目の王座。(FP、GC、スーパーシルエットチャンピオン)。

1983年、自らのレーシングチーム「HOSHINO RACING TEAM」設立。

1984年、GCパーフェクトチャンピオン。

1985年、GC連続チャンピオン。同年、富士スピードウェイで開催されたWEC JAPANにて、日本人で初めての優勝を果たす。

1986年、日産チームとしてル・マン24時間レースに初挑戦。ホンダF1開発テストを担当。鈴鹿F2チャンピオンに輝く

1987年、F3000、GCにエントリーし、両シリーズチャンピオンに輝く。

1990年、ル・マン24時間レースに日産R90CPで参戦し、5位入賞。

1992年、デイトナ24時間レースにニッサンR91CPで参戦。

国産車/日本人で初めて優勝

1997年、国内トップフォーミュラ(フォーミュラ・ニッポン)からの引退。

1999年~2000年、最多優勝(海外レースを含め130優勝)ドライバーとしてJGTCに参戦。同年、フォーミュラーニッポンチーム監督。

2002年、現役ドライバー引退を発表。

現在、「ホシノ・インパル代表」。


阿部 光雄氏(1948年4月29日生まれ、現在74歳)

阿部氏は元オートレーサー。

川口オートレース場所属の広瀬登喜夫(期前、引退)、且元滋紀(9期、引退)、篠崎実(9期)らと共に「川口四天王」と呼ばれた。

モーターサイクル・ロードレースレーサーの故・阿部典史(ノリック)氏は実子である。

2010年に、典史氏が若手育成チームとして率いていた「Team Norick Jr.」を発展させる形で発足した「Webike チームノリックヤマハ」の監督に就任。

以後同チームの監督として全日本ロードレース選手権等への参戦を続けている。

■オートレース時代の戦歴 通算優勝回数:71回

グレードレース(SG,GI,GII)優勝回数:18回

全国区レース優勝回数、SG優勝回数:2回

GI優勝回数:10回

GII優勝回数:6回


鈴木 秀明氏(1948年12月25日生まれ、現在73歳)

髭を蓄えた風貌と、「闘志」「我慢」「俺を見よ」「迷わず飛べ」などのフレーズをプロテクターやマシンに書くパフォーマンス、大迫力の走りと激しい人柄から「ガッツ秀明」と呼ばれた。

1973年、セニア250cc優勝。

1974年は125cc、250ccのダブルタイトルを獲得。

1999年と2000年には、「WORLD VETERAN CHAMPIONSHIP」にて50歳以上クラスで連覇。


荘 利光氏(1949年9月23日生まれ、現在73歳)

「暁の超特急」の異名を持つ、元スズキ・ホンダのワークスライダー。

1972年レースデビュー後、その年のうちに超異例の3階級特昇でセニア(現国際A級)クラスに昇格。

1973年から6年間、スズキのファクトリーライダーとして活躍。

その後、オーストラリアに渡ってモリワキの開発ライダーを務め、1981年にホンダ。同年、「SRTアパッチ」を設立。


水谷 勝氏(1949年10月7日生まれ、現在73歳)

「東海の暴れん坊」、「ミスター・スズキ」の異名を持つ 。

ウォルター・ウルフカラーのウエアをまとった水谷氏と、最新のYZR500を駆る平 忠彦氏のバトルは見る者を熱狂させた。

1976年、全日本筑波大会ジュニア250ccでロードレース初出場。ジュニア250ccクラスでチャンピオン獲得。

1979年、全日本ロードレース選手権。国際A級750ccクラスでチャンピオン獲得。

1981年、スズキの契約ライダーとなる。

1982年に、全日本ロードレース選手権の最高峰である500ccのクラスで、参戦レース7戦全勝。国際A級500ccクラスチャンピオンに輝く。

1984年、プライベーターとして、全日本ロードレース選手権500ccクラスに参戦。

1985年~1987年にかけては、ウォルター・ウルフのカラーリングで参戦。

現在は、自身のロードレースチームであるTeam MIIR(チーム エム・ツー・アール)を立ち上げ、全日本ロードレース選手権 JSB1000クラス、鈴鹿8時間耐久ロードレースに参戦している。


片山 敬済氏(1951年4月16日生まれ、現在71歳)

1971年、ヤマハで全日本ロードレースにデビュー。

1974年、セニアに昇格。同時にヤマハファクトリーライダーとなる。同年、単身ヨーロッパに乗り込み、TZ250で世界GPを転戦。スウェーデンGPで初優勝を飾るなど3回の表彰台を記録し、ランキング3位に入った。

1976年、まったくのプライベーターとして世界GPを走り、250ccランキング2位、350cc7位などの成績を残す。

1977年、ヤマハのヨーロッパ販売会社(YMENV)と契約。市販型TZ250/350と現地開発の3気筒TZ350を使い分け、250ccランキング4位、350ccでは日本人初の世界GPチャンピオンに輝いた。

1979年、世界GP活動を再開したホンダに移籍。

1982年、スウェーデンGPで500cc初優勝を果たした。

1985年、フランスGP開催中にレースからの引退を表明。

1986年、Racing team KATAYAMAで、監督として全日本ロードレース選手権に本格参戦。


鈴木都良夫氏(1951年11月10日生まれ、現在71歳)

1972年、全日本モトクロス選手権で、セニア250ccクラスで優勝。

1973年、全日本モトクロス選手権で、セニア125ccクラスで優勝。

1974年、イタリアのオートバイメーカー・アプリリアでモトクロス世界選手権シリーズ参戦。

1976年、全日本モトクロス選手権で、セニア125ccクラスで優勝。

ヤマハで活躍後に世界へ挑戦し、スズキを経て最後はカワサキで走った。

モトクロスライダーの鈴木秀明は実兄。兄弟ながら「当時は口も利かないライバルどうし」だったという。


渡辺 明氏(1954年10月21日生まれ、現在68歳)

日本人として唯一のモトクロス世界選手権チャンピオン。

1974年、全日本モトクロス選手権EJ125ccチャンピオン、全日本モトクロス選手権EJ250ccチャンピオン。

1975年、モトクロス世界選手権ランキング4位(第12戦スペインで日本人初の総合優勝)。

1976年、全米トランスAMA500ccランキング8位(オハイオ州大会優勝)、第1回オールスターMX桶川 総合優勝。

1977年、モトクロス世界選手権(フランス、イタリア総合優勝)。

1978年、モトクロス世界選手権GP125チャンピオン(イタリア、ユーゴスラビア、スイス、ポーランド、フランス、スペイン優勝)、第2回オールスターMX鈴鹿サーキット鈴鹿 総合優勝、全日本モトクロス選手権MXGP鈴鹿250・総合優勝。

1991年、パリ・ダカール・ラリー総合23位。

2012年、TEAM SUZUKI国内MX監督就任。

現在、AWP代表。後進の指導にあたっている。


東福寺 保雄氏(1956年10月18日生まれ、現在63歳)

1972年、レースに初参加。

1980年~1982年、全日本モトクロス選手権国際A級で3連覇。

1984年、全日本モトクロス選手権国際A級優勝。

1986年~1998年、全日本モトクロス選手権国際A級、3連覇。

1990年、全日本モトクロス選手権国際A級優勝。

1990年まで、史上最多の9回のチャンピオン。

1992年に引退。

1993年、T.E.SPORT監督就任。

元ホンダ・レーシング所属。現在、「東福寺エンタープライズ」代表。現在はMX racing team T.E.SPORT監督として、全日本モトクロス選手権や関東モトクロス選手権などに参戦中。


土屋 武士氏(1971年11月4日生まれ、現在50歳)

1989年、カートレースデビュー。

1992年、FJ1600でレースデビューし、デビュー戦で優勝。

2000年、自費でフォーミュラ・ニッポンにスポット参戦。10位という結果に終わるものの、関係者の注目を浴びる。

2001年、ARTAよりフォーミュラ・ニッポンへのフル参戦。

2003年~2005年、チームルマンに移籍し参戦。

2006年、トムスから参戦。JGTCは、つちやエンジニアリングに復帰し参戦。

2008年、フォーミュラ・ニッポン引退を表明。SUPER GTでは現役続行を宣言。

2009年、一ツ山レーシングからアストンマーティンDBR9でGT500クラスに参戦。さらに、フォーミュラ・ニッポンに参戦するドライバー達で構成される「フォーミュラ・レーシング・ドライバー・アソシエイション(FRDA)」の会長に就任。

2011年からは、キグナス・スノコの監督に就任。

2015年、「つちやエンジニアリング」の名称を引き継ぎ、マザーシャシーを用いて独自開発したトヨタ・86でGT300クラスに参戦。第6戦SUGOにおいて初優勝を飾る。

2016年、レギュラードライバーを勇退することを発表。最終戦を含め2勝を飾り、自身初のチャンピオンに輝いた。同年、TOYOTA GAZOO Racingの一員としてニュルブルクリンク24時間にデビュー。SP-PROクラス優勝。

名門レーシングガレージ「つちやエンジニアリング」の創業者であり、名メカニックとして知られる土屋春雄氏は実父。


【関連記事】
国産初のF1「KE007」が富士スピードウェイを走った日 コジマエンジニアリング・小嶋松久氏が語る Vol.1
日本パワーボート協会物語 Ver.1「パワーボート」という競技を知っていますか?「パワーボートの今」を作った「小嶋松久」氏
2022年 BRP SEA-DOO(シードゥ)ニューモデル国内全モデルラインナップ
2022年 ヤマハ Wave Runner(マリンジェット) ニューモデル国内全モデルラインナップ
2022年 カワサキ ジェットスキー ニューモデル国内全モデルラインナップ
2022年 カワサキ「ULTRA 310 LX」怒涛の加速・310馬力のモンスター・マシンの走り



ジェットスキー中古艇情報

月間アクセスランキング