前回、日本パワーボート協会会長の小嶋松久氏に、「パワーボートの現在」についてお話を伺った。前回の記事では紹介できなかったが、話を伺うなかで、小嶋氏のルーツともいうべきモータースポーツとの出会いと関わりが非常に興味深く、貴重な話であった。
古くからのモータースポーツファンの方なら、「1977年に富士スピードウェイで開催された、日本GPに参戦したF1マシン『KE009』」といえば、思い当たる人も多いだろう。
その前年の1976年に、富士スピードウェイで開催された国内初のF1GPで走った国産F1マシンが「KE007」である。そのマシンを製作したコジマエンジニアリングの代表が、この小嶋氏なのだ。
今回は、小嶋氏が15歳で初めてバイクレースに出場したときから、スズキのファクトリーライダー時代の話を中心に伺った。1945年に第二次世界大戦が終わり、その14年後の1959年からモーターレースに参戦している小嶋氏は、まさに現代日本のモーターレース界の歴史でもある。
日本で初めて国産のF1マシンを造った小嶋松久氏。現在は日本パワーボート協会の会長だが、バイク、クルマのレース界で名を馳せた歴戦のレース人である。
WJS 小嶋会長が、モータースポーツと出会ったのはいつですか?
小嶋 レースは、15歳(1959年)のときに京都で行われたダートトラックレースに出場したのが最初です。僕らのころ、原付バイクの第一種50ccは14歳から、二種は16歳から。普通乗用車も16歳から免許が取れました。僕が18歳のときに法律が変わって、18歳以上にならないと普通自動車免許は取れなくなったんでラッキーやった。
WJS 10代半ばから、レース三昧なのですね。
小嶋 レースに初めて出たのが15歳で、16歳のころから、浜松のスズキ自動車に世話になってました。あの当時は、体がデカくて若ければ、メーカーが「拾っといたろ」という時代でした。
WJS 高校生のころからファクトリーライダーですか?
小嶋 初めは、2軍3軍からのスタートです。レースチームに所属させてもらい、学校を卒業して、そのままスズキ自動車に入社しました。
WJS その頃は、バイクのレースがメインですか?
小嶋 はい。オートバイ。僕は、モトクロスとダートトラックがメインでした。国内のレースから、海外のレースも頑張りました。
WJS オートバイレーサーといえば、今は小柄な選手が多いですが、小嶋会長は背が高いですよね。当時は、体が大きなレーサーが良いとされていたのですか?
小嶋 高度経済成長時代で、新聞配達も自転車から50ccのバイクに乗るような時代です。だから、200cc以上のエンジンでないとレースらしく走れなかった。50ccではアンダーパワーやからね。レース自体は125cc以上から、200ccくらいの変な大きさのクラスから上が多かったん。それくらいないと、レースやるほど走らなかったからね。だから、「大型エンジンを乗りこなすのに、体の大きなライダーのほうが必要になってくる」っていうのが、昔の時代のレースでした。
WJS 小嶋会長は250ccのバイクに乗っていたのですか?
小嶋 そうやね。でも当時のスズキは、50ccと90ccの性能が良かったんですよ。比較的いい成績を収められたんですけど、僕ら、125ccや250ccの担当が多かったですよね。
WJS 海外もレベルが高いんですよね?
小嶋 でも当時のスズキは、50ccと90ccのカテゴリーが強く、大型エンジンは弱かった。最初は、海外には行っていなかったのですが、僕らが国内で最高順位を取れるようになったころ、スズキ自動車自体が「国内は先が見えた。海外で勝負」というふうに変わっていった。それから海外で戦うようになりました。
WJS 海外で、日本人のレーサーが活躍する先駆者ですね。
小嶋 運が良かったんですよ。僕らが海外に参戦しはじめて1~2年くらいで勝ちまくりました。スズキ自動車としても、日本人がヨーロッパに行って、地元のレーサーにバンバン勝っていくと、逆に日本製のバイクが嫌いになる。反感が多くなって、逆に日本製のバイクが嫌いになる。商売の妨げになる、となっていました。
WJS でも、バイクを売るためにレースに勝つ必要があるのに、負けたら売れないですよね?
小嶋 だから、現地のレーサーにスズキのオートバイを貸してあげるんです。それで勝たないと観客が沸かない。そのうち、スズキだけでなく、世界中のファクトリー同士の戦いがドンドン激しくなり、「ロードレースにはお金がかかりすぎるからやめよう」と言われる時代がきた。じゃあ次に何かという話になって、モトクロスになりました。
ロードレースは、当然、サーキットを使います。ヨーロッパでサーキットを回るといっても4カ所くらい。そのまわりの地域は湧いてパブリシティになっても、サーキット場のない地域ではコマーシャルにもならない。それに比べて、モトクロスはドサ回り。言い方は悪いけど、どこでも行ける。グランプリの場所もどんどん変わる。それでモトクロスに力を入れようってことで、スズキが初めて海外でモトクロスをやろうっていうことになって。
WJS 日本のモトクロスレースの草分け的な存在ですね?
小嶋 はい。スズキが海外でモトクロスレースをやったんです。そのとき、たまたま私がスズキのメインライダーでしたので、自然と海外も行けたんです。1964年、20歳のときに、日本で初めてのモトクロスレース「MFJ 第1回モトクロスグランプリ」で、50ccクラスで優勝しました。1966年には、「第3回モトクロスグランプリ」で90ccクラス、250ccクラスでダブル優勝。スズキのワークスライダーとして、ヨーロッパのモトクロス世界選手権に遠征したほか、メカニックとしての修行も積みました。
WJS メカニックもしていたのですか?
小嶋 当時は、それでなかったら入れてもらえなかったです。1966年、67年は現場にずっといて、レーシングマシンを製作することにも力を注ぎました。走ることも大事ですが、マシンも同じように肝心。その当時の「モノづくり」の経験が、今までのマシン作りに生かされていると思います。造る方に興味が出てきた。自分が「レースマシン作りが好きだ」と感じ始めたのもこの頃です。
WJS いつから自動車レースを始めたのですか?
小嶋 24歳(1968年)のとき2輪レースを引退して、自動車に転向しました。スズキがフォーミュラをやり始めたんです。スズキの軽4輪のエンジンを積んだフォーミュラっていうのが、お金もかからないということで、JAF(日本自動車連盟)のほうで流行らせようというのもありました。ホンダもありましたが、あの当時はスズキの2サイクルが優秀だったから、ファクトリーとしてはコマーシャルをして、優秀さを一般の人に広めないといけなかった。市販のエンジンを提供しなければいけなかったわけです。それで、オートバイからそちらのほうがメインになっていきました。
WJS 会社の方針で、バイクからクルマのレースに変わったのですね?
小嶋 はい。10年以上やりましたよ。それで、26歳(1970年)のとき、コジマエンジニアリングを設立してね。自動車も小さいやつをやる以上は、ある程度パワーがあって、いいシャーシを勉強しないといけない。だけど、日本にはない。それでまた、イギリスなんかに行って良いシャーシを買ってきて。それでひとつ下のランクのマシンの教材にしようということで開発をやりだした。そしたら、性格的にエスカレートしていって……。
そのころ、JAFが1,300を力を入れてきたので、「1,300をやろう」となりました。それなら、F2くらいの2,000くらいのマシンを買ってこないと勉強にもならない。で、F2を買ってきて、どんどん勉強していった。そうしたら、一番小さい550、1,300、2,000。まあ、国内のJAFのグランプリは、全部、予選を1位で決勝も優勝した。そうしたら、「もうこれ以上やることがない」ってなったけど、次に「フォーミュラ1」が日本に来るということになったから、「フォーミュラ1を造ろうか」ということで、造り始めたわけです。
※次回に続く
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